漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

エヴァンゲリオンという作品について

 昨日、シン・エヴァンゲリオン劇場版を公開初日に観てきました。

 熱が冷めやらぬうちに、溢れ出てくる言葉を書き留めておこうと思います。

 言うまでもなくネタバレには配慮しませんのでご注意ください。

 

 

  自分がエヴァンゲリオンという作品に出会ったのはハイティーン(19歳頃かな?)です。友人の勧めで、彼が録画していたVHSを借り、TVシリーズを一気観しました。その頃はまだインターネットが一般的ではなく、世間の評判といったものを知る機会はありませんでした。ただひたすら作品に圧倒され、賛否両論、いや、むしろ否定派が大勢を占めていたと後で聞いたラストも、自分にとってはパーフェクトに感じました。

 

 その後、劇場版が公開されました。いわゆる旧劇です。完全に作品に魅了されていた自分は、『シト新生』も、『Air/まごころを、君に』も公開されてすぐ観に行きました。そして、TVシリーズの完全な補完になっていることに驚愕し、感動し、圧倒されました。これを超える映像作品を観られることは、今後、無いのではないかと強烈に思ったのを覚えています。あの日の一番町~名掛丁の風景は、エヴァの心象風景として深く刻み込まれています。

 

 TVシリーズも含めた旧劇は、コミュニケーションの本質とでも呼ぶべきものを、これでもかと描き尽くした作品です。人と人とは本質的に分かりあえない。なぜなら、「あなた」と「わたし」は異なる個体だから。そのシンプルな思想を、これでもかと多面的に描き尽くした作品だと自分は認識しています。

 

 それでもなお、エヴァンゲリオンという作品のコアにあるのは「救済」です。あらゆる人類を救済しようと試みた模索の結果であり、表現だと思うのです。そこに描かれているのは混沌であり絶望かもしれませんが、そういう形でしか示すことの出来ない救済というものを見せてくれた作品です。

 

 エヴァンゲリオンという作品には、「悪役」が存在しないと思います。ゼーレや碇ゲンドウですらも「悪」ではない。登場人物すべてが、各々の信じる「善なるもの」を求め、救いを得ようとした。ゼーレは人類補完計画で人類の救済を求め、ゲンドウはユイを求めた。他の登場人物も、明確に示されていはいないものの、同じように「救い」を求めていた。その中で、ただ一人、求めていなかったのは碇シンジだけ。

 

 そして、ただ流されるだけだった碇シンジが、最後には救われます。人と人は分かり合うことは出来ないけれど、相手を認め、許容することは出来る。それをTVシリーズでは抽象表現で、劇場版では具象表現で描ききった作品だと思います。

 

 そういう風に受け止めていたので、新劇が公開されることを知ったとき、なんで余計なことをするんだと軽く憤ったことを覚えています。これ以上ない形で、素晴らしく完璧に終わらせた作品を、なぜもう一度、混ぜっ返す必要があるんだと。なので、序も破もまったく興味はなく、作品を観ることもありませんでした。

 

 その認識が覆されたのは、たまたま付けっぱなしだったTVから流れてきたQを観たときです。なんだこれは。自分が知っているエヴァじゃない。もしかして、自分はとんでもない勘違いをしていたのではないか、と愕然としました。

 

 そこで、慌てて序と破を観ました。その上で、改めてQを観ました。そして思い知りました。庵野秀明は、なにかとんでもないことをしようとしている、と。ちなみに自分はQもかなり好きです。エヴァは「謎」が魅力だ、といった言説があります。風呂敷を広げっぱなしで畳もうとしない、といった評も見かけます。しかし自分は、エヴァにそういう思いを抱いたことがありません。すべてが分かっていると言うつもりはありません。自分はオタクと自認できるほどの熱量はないですし、知識も決して多くはありません。おそらく、作品の上っ面を撫でるような鑑賞しか出来ていないと思います。けれど、エヴァに対しては、そういう消化不良のフラストレーションを感じたことは一度もないのです。常に深い満足感しか得たことがないのです。確かに「説明」はされていないかもしれない。けれど、表現されているではないか、と。全部、示されているではないか、と。分からない言葉がある。けれど、それを分かる必要はあるのか?この作品は、それを分からないといけないと言っているか?と、巷の批評を読んで思っていました。

 

 そして、満を持して『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されました。冒頭に書いたように、昨日、観に行ってきました。

 ああ、大人になったんだな、と思いました。

 変わらないものはない。万物は流転する。

 何よりも、庵野秀明の凄さに圧倒されました。

 エヴァンゲリオンから始まったものが、エヴァンゲリオンとして終わった。

 これをやるために、新劇を作ったんだな、と。

 まさに、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」だなと。

 そして、やっぱりエヴァンゲリオンは「救済」を描いた作品だったんだなと。

 

 若干、これはご都合主義じゃないかな?と感じたところもあります。

 けれど、すべてが収まるべきところに収まり、そして薄れていく。

 これを描ききれるのは、庵野秀明しかいなかったのだろうと思います。

 そして、描ききったことは、ただ偉業としか言いようがない。

 そこにあったのは、圧倒的な「体験」でした。

 

 エヴァは終わった。

 しかし、これからも人生は続いていく。

 この作品に多感な時期に出会え、リアルタイムで時を共に出来たことに、心からありがとうと伝えたいです。

 ありがとう、エヴァンゲリオン。さようなら、エヴァンゲリオン

 

ふせったーに長文書いたのでリンクしときます。