数学は「発見」?それとも「発明」?
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定義の問題とかは、取りあえず脇にどけといて。
お題にあえて乗ってみることが、愉しむ秘訣だと思います。
さて。
ぼくは、「発見」支持派です。
別にプラトン主義ってことも無いのですけれど、なんとなく、直感的に。
森羅万象は、その出現と同時にすべてが定められているような気がします。
つまり、運命論者なのです。たぶん。
ただ、そこへ至る過程と、そこから至る過程が、能力であり才能なのではないかと考えます。
見つけ出すという行為だけではなく、そこへの経路を確立させていくこと。
そして、そこから先の経路を模索し、整備していくこと。
それは、前人未踏の地を切り開くことと同義なのではないかと思うからです。
この表現は、手垢が付くほどに繰り返され続けているものであることは承知の上で。
「そこにある」は、「それを知る」ではないわけです。
例え目の前にあったとしても、気付かない事の方が、じつは多いのではないか。
多分、ありとあらゆる解答は、すでに提示されているのではないかと思います。
しかしその解答は、いつまで経っても見ることが出来ずにいる。
時々何かの拍子に、その端っこが視界の端を通り過ぎたりする。
けれど気付いた時には、すでに見失ってしまっていて、本当に見たのか確信が持てない。
その繰り返しで、人間の文明というのはここまで来てるんじゃないか。
数学というのは、人間が作ってきた文明の、もっとも純粋な形です。
必要な部分のみに絞って、余分なものを出来る限り削ぎ落とした結果が数学だから。
そこからは意味さえも削ぎ落とされ、ただ「それ」だけが残る。
そういうことだと思うのです。
そして、「それ」を発見したあと、「それ」の利用法を考える。
これが、「発明」って事だと思います。
見つけることと使うことは、明らかに別のことです。
意味を削って見つけたものに、新たに意味を付与していくこと。
言葉を排除していった結果、見つかるもの。
そして、見つけたものを、言葉でくるんでいくこと。
数学という核を中心に、全方位に拡散しているのが、文明だと思います。
そして何よりも、こういう事を考えることが素敵だと思います。
数学というのは、究極の娯楽ですから。