漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

ネットにおけるCommunication

nikkei BPnetのネットワークと子ども、悩みつづけるオトナ達(7)。 この記事を読んで、むむむっと考え込みました。 記事自体は、ありがちな「ネット否定論」ではありません。 そこに陥らないように、繊細に構成している感じを受けました。 まともな記事であっても、中身をろくに読まずに脊髄反射されることが多いからかな。 ここまで気を遣って書かなきゃいけないことに、ちょっと同情します。 で、考え込んだのはこの部分。
会話する努力は、かなり厳しい側面を持つ。いくら友人でも話題を選び、しゃべり方にも気を使って、はじめて会話は成立する。それならば、メールの方が一方的に書けるだけ、気軽だし手軽だ。また、配慮もタイヘンだ。相手の文章を読み理解したうえで、言葉を選んで書いていくことなど、つづけると疲れきってしまう。ならば、親近感で思ったままを言葉にするのが、気軽だし楽しい。携帯電話やパソコンそしてネットがめざす、手軽さ気軽さと、それは不思議に一致する考え方である。
別に普通のことじゃん、って感じではあります。 何に引っかかったかというと、「ネット」というMediaの本質です。 匿名顕名問題とか、何かとネット特有と思われることが問題になることが多い。 その根っこにあるものって、もしかしたらこれか?と思ったのです。 一言で言うと、ネットではCommunicationは存在していないのかも。 Blogにしろ、Emailにしろ、です。 Communicationという概念は、幾つかの要素に分解されます。 情報の遣り取りというのは、その要素の一つに過ぎません。 Communicationは、共有や受感、経験などが絡まり合って形成されています。 これらは全て、広義では情報に含まれます。 しかし、狭義では全く違う種類のものであることは自明です。 ネットにおいて、狭義で情報と呼ばれる以外の要素について考えてみます。 すると、かなり絶望的な状況なのではないか、という結論になってしまいます。 例えば共有。 これは、前提となる知識があって始めて、可能になる感覚です。 同一の場に居ることによって、自動的に共有する場合もあります。 けれど、ネットという媒体を介したとき、期待は出来ない。 前者に関しては、その知識が相手にあるのかを推し量る必要があります。 けれど、Deepな話題になればなるほど、初対面で推し量ることは無理でしょう。 後者に至っては、同一の場にいるのであれば、そもそもネットは必要ないです。 ではネットではない、realな対面ならどうか。 言うまでもなく、後者は自動的に満たされます。 前者は、ある程度であれば、表情などの別要素によって分かります。 共有が完了すると、価値観の共通化がある程度完成します。 その結果、Communicationの齟齬は格段に減ることになるでしょう。 齟齬が少なければ、確執に発展することも減ります。 結果として、比較的穏やかなCommunicationが成立することになります。 共有できなかった場合、相手の表情などから、そのことが読みとれます。 この、表情などを読むということが、生物として重要な部分です。 あえて説明する必要もありませんが、危害の有無を瞬時に判断するわけです。 相手が共有できていないことを読みとることで、Communicationの結果が予測できます。 結果が自分にとって不快になりそうなのであれば、この時点で回避出来るわけです。 ところがネット文化だと、この情報を知覚できません。 どちらかの分水嶺を越えた瞬間に、突然、怒りが爆発するわけです。 しかも、分水嶺が相手に知覚できないため、その経験も取得できない。 となると、このような分野がどのように成長するのか、全くの未知数になりかねない。 こういう部分の欠落に関しては、古くから散々言われてきました。 その緩和策として、絵文字や顔文字が登場してきています。 それらの約束事によって、情報の質は多少良くなっていることも確かです。 けれどそれらは、あくまでもLocal-Ruleに過ぎない。 そうである以上、Globalな情報になることは根本的にあり得ない。 となると、同じ表現で異なる意味という状況になりやすい。 これは、言語の欠陥そのものに関わる問題でもあります。 そしてネットというのは、本質的に非同期です。 これからの技術革新によって、同期した文化も登場してくるでしょう。 すでに、TV電話などの技術は世に浸透しています。 けれど、それとこれとは次元が違うのです。 文化というものは、技術的な制約とは根本的には無関係です。 しかし登場した当初は、文化は制限による限界へと必然的に押し込められます。 この段階において、技術的な制約が文化に及ぼす影響はかなり大きいです。 けれど、技術が改善して制約が取り払われても、文化はから出て来ません。 まだ固まる前の文化であれば、の外に広がろうとすることもあります。 でも一度固まってしまった文化は、を壊すことはしないのです。 大きくなるときは、の形状を保ったまま大きくなろうとします。 このことを踏まえると、ネット文化も同様の進化を辿ると思われます。 つまり、非同期であり続けようとする気がするのです。 以上からネット文化は、real文化とは異なる進化を遂げると予想されます。 ぼくの持論は、ネットはrealの延長上にあるだったので、これは大きな衝撃です。 とはいえ、土台となる部分は共通している。 そうであるのなら、どこから分岐するのかが重要だと思います。 columnで書かれているような、子供へ及ぼすネットの影響。 それは、Generation-Gapへと繋がるものなのかもしれません。 これまでのものとは違う、別の生物種に分かれてしまう程の。 非同期前提の文化形態は、同期前提の文化形態とは完全に別のものになります。 社会形成のprocessや、約束事の基本概念すら変貌する可能性が高い。 ここまで隔たりが大きいと、相互理解はまず不可能となるでしょう。 かといって、子供をネットに触れさせないという選択もどうか。 Networkが世界を席巻していることは、すでに自明だからです。 ここで子供を遠ざけることは、その進化を否定することと同義です。 となると世代間で価値観を共有する手段が急務なのかもしれません。 改めて、難しい時代なのだなぁ、と思います。大変だ。