漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

他者に学ぶ---『ものづくり寄席』を聴いて - 材料で勝つ - Tech-On!

他者に学ぶ---『ものづくり寄席』を聴いて - 材料で勝つ - Tech-On!

これはとても面白い記事だと思います。

「私の会社は○○をつくっていまして,○○にかけては世界一だと自負しております。自動車産業さんは確かに立派ですが,うちとはかなり状況が違うので参考にはならないと思います…」。藤本氏はこうした発言をする方々を「固有技術の鎧(よろい)をかぶった」状況だと表現し,「その鎧を脱いでみましょう。脱いだ後に残るのは何ですか?」と問いかけているそうだ。
この問いを受けて、答えられる人がどのくらい居るでしょう。

かなり少ないのではないかなぁ、と、実体験を振り返って思います。

ぼくの業種はNetworkEngineerなので、「ものづくり」には当て嵌まらないように見えます。

けれど、それは大きな間違いで、

この世に存在する業種や仕事といったものは何だって「ものづくり」だという解釈ができそうだ。
という部分、まさにその通りなのですね。

実際に、手で掴める「もの」を作っていることが「ものづくり」ではないのです。

その好例が、舞妓さんの場合を例にして語られています。

気難しい顔をしてお腹をすかせたお客さんがお店に入ると,舞妓さんは踊りや音楽,食事といったサービス(=設計情報)をお客さん(=原材料)に与え(=転写し),数時間後にはニコニコして満腹となったお客さん(=完成品)がお店(=工場)から出てくる
上手いこと言うなぁ、って感じです。

そして、このように置き換えてみれば、先の言葉により現実味が出て来ると思います。

「職業に貴賤なし」という言葉の本質は、ここにあります。

どんな仕事であっても、その本質となる部分は何も変わらないのです。

それが分からない人が多いから、「仕事」が面白くないのだと思います。

本来、「仕事」とは「労働」ではないはずなのです。

理想は、自分が出来ることをして、誰かが喜んでくれる、という事に尽きる。

そこが全てのStart-lineで、対価を得るというのは、本来は二次的なものなのですね。

ところが、「綺麗事ばかりでは飯は食えない」というのも真実。

しかしながら、「食えるだけの飯で良いなら、稼ぐのはそれほど大変ではない」のです。

「好きなこと≠得意なこと(出来ること)」というのが悲劇なのだと思います。

いや、自分を騙すことは出来るし、それは比較的簡単なことってことも知ってる。

遮二無二頑張ることで、こう、ぐるっと転回させちゃえばいいだけのこと。

得意なことを好きなことと「見せかけ」てしまえば良いだけの話。

けど、例えば40歳を過ぎた頃に、ふと冷静になる自分というのも其処にいるわけで。

そうなったときに欺瞞に気付いたら、これはきついと思うなぁ。

じゃあ、得意じゃないけど好きだから、といって立ち向かうとどうなるか。

ちょっと前、そうだな、60年代とかなら、たぶん食えたと思う。

けど、今はまず食えない。何故か。人が多すぎるから。

もう一つは、あまりにも視野狭窄で、近視眼的な人が多すぎるから。

あと、「本当にやりたいこと」というのを求めていないのでは、と感じます。

本当に好きで、それをやりたいのなら、手抜きなんて出来るはずがない

何故なら、手を抜くってことは、その対象を穢すのと一緒のことだから。

本当に好きなのならば、それは耐えられない事だと思うのです。

そして真摯に対象へ打ち込んでいるのなら、「誇り」は絶対に芽生えてくる。

自分の仕事が下流のものであったとしても、その仕事への矜持は必ず持つようになる。

上を見て僻むのではなく、その場にいることを誇れるようになる。

そうなって始めて、人は「職人」と呼ばれるようになるんじゃないかと思うのです。

さらに言えば、その仕事への対価にも、興味は無くなる気がします。

「価値」というものは、自らが付与するものではないからです。

それは、「誰か」に「いつの間にか」付与されているものだと思います。

何故それが高価なのか?と問えば、手にするのが難しいから、と返ってくる。

そういう世界こそが、「正しい」世界のあり方なのではないかな、と。

職人と呼ばれるべき人は、「固有技術の鎧」を端から身につけてはいないはず。

いろんな人がいて、いろんなやり方があるからこそ、世界はくるくると回る。

そのことを身に染みて分かっているのが、職人という存在、と思うからです。