漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

「ウェブ時代をゆく」についての講演を読んで

まず始めに、梅田氏の著作は全く読んだことがありません。

読む気になれない、というのがその理由。

その前提で、梅田氏の講演について感じたこと。

読んだこと無いのに何言ってんだ、という批判は百も承知で。

なんで、氏の著作を読む気になれなかったか。

それが、この講演を読んで朧気に分かったような気がします。

梅田氏とは、「方向」というか、そういう部分がぜんぜん違う、と思う。

大きく、人が持つ傾向というのは、4つくらいに分類されるのでは、と思っています。

ちょうど、よく見るRadarChartみたいなあれ。インパク知、みたいな。

そして、さらに「表」と「裏」に分かれる。見た目で言えば立方体。

この分類があるので、各種の正確診断みたいな考え方に結びつくような気がします。

血液型も、ちょうど4つだし。星座も4の倍数だし。

13星座が浸透しないのはここに理由があるのでは、なんて脱線してみたり。

その傾向はどのようなものか。

x軸にplotされるのは「楽観」と「悲観」。

y軸にplotされるのは「論理」と「感情」。

z軸にplotされるのは「開放」と「閉鎖」。

このように考えたとき、z軸のどちら側かが重要だと思うのです。

xy平面上で全く異なる区画に属していても、z軸が同じであれば意気は投合できる。

けれど、仮にxy平面で同じ区画に属していても、z軸が異なると無理。

その理由は、xy平面が「性質」なのに対し、z軸は「方向」だから。

「性質」が異なる同士でも、「方向」が同じであれば「共感」は可能。

逆を返せば、「方向」が異なれば「共感」は無理。

それが歴然になるのが「死生観」だと思います。

「死」というものを「どう考えるか」ではなく「どう感じるか」。

開放に向かう人にとって、「死」は見えないのではないか。

一方、閉鎖に向かう人にとっての目的地は、常に「死」です。

この違いは、根本的な前提条件に関わる、とても重要な感覚だと思います。

自殺願望とか、そういう話ではないです。念のため。

これはどちらが良くてどちらが駄目、という種類のものじゃないです。

ただ、そういう傾向、というだけのこと。

そして、梅田氏とは方向が逆なんだな、と気付きました。

だからこそ、氏の著作を読もうという気になれないのだと思います。

講演の中で、面白いなと思った部分は幾つかあります。

けれど、そこから導き出される結論には、「共感」出来ない。響かないのです。

例えばこの部分。

 それで分かってきたのは、本を読むのには2タイプあるということ。1つは頭で読む方法、もう1つは心で読む方法です。

 「ウェブ時代をゆく」は頭で読む人にとってはダメですね。そういう人にとっては、書かれているファクト(事実)が新しいか、自分が知らないことかが関心事なんです。自分の人生と遠いところにある。知を傍観者として論評する。学者に多いですね。もっとも、そうじゃなきゃ学者は務まらない。コンテンツで人生を惑わされてたら学者はできないですから(笑)

 でも僕を含めた市井の人、もがきながら生きている人は、生きていくエネルギーや答えを得るために、心で本を読む。

 「ウェブ進化論」は頭で読む人にもOKなんだけど、「ウェブ時代をゆく」は物足りないと思う。ただ、心で読む人には届くものがあるんじゃないかと思っています。

ぼくの場合、明らかに「心で読む」人です。

そして、この文章を読んで、確かにその通り、と思います。

けれど、梅田氏の本を読んでも「届かない」だろうな、と思います。

ひょっとしたら、実際に読んでみたら違うのかもですけれど。

なぜそう思うのか。

「本」に対する認識、捉え方がぜんぜん違うからです。

ぼくの場合、本というのは「絵画」であり「写真」です。

目では活字を追いかけているのですが、脳内では「風景」を観ています。

それは、「物語」として本を捉えているからではないかな、と考えています。

FictionとNonfiction、或いは、実用書や文学などといった括りは関係ありません。

このような読み方の場合、細かい部分は全く頭に入りません。

読み飛ばしている、と言われれば、おそらく間違ってはいないと思います。

但し、「物語」という大きなものは、確実に蓄積されていることは事実。

「古い職業」と「新しい職業」のどっちがいいかは向き不向きによるる。でも多くの人は「新しい職業」「けものみち」を行くんです。

 そういう切り口で言語化した道しるべを用意すると、困ってどうしようかと思っている人に、何か僕が悩んできた結果のエッセンスは届けられるんじゃないかと思った。

という意識で書かれているから、尚更なのです。

道しるべであるのなら、同じ道を歩く人にしか役に立たない

例えば、MORI LOG ACADEMY 11/14の記事を引用します。

 たとえば、自分の読んだ本をブログで紹介したり、「私のベスト10」なんて挙げている人がいる。僕なんかは、「べつに自分で読んで楽しめれば、それで完結するのではないか」と思ってしまうが、みんなで読みたい、読んだ感想を人と語り合いたい、という欲求があるのだろう、と想像する。混み合ったライブで聴いた方が音楽が楽しめるとか、スポーツを大勢で応援したいとか、同じような傾向のものが見つかる。もともと、音楽は大勢でしか聴けなかったし、スポーツも大勢でしか観られなかったのだが、そちらの方が逆に貴重になってしまったわけである。

 都合の良いときは一人で、大勢でいたいときは仲間と一緒、という選択ができる贅沢さが、これからの豊かさだろう。

 それはそれとして、僕自身は、群れることがかなり嫌いな方だ。それが基本的な部分にある。仲間をあまり作りたくない。他人に自分をわかってほしい、とはあまり思わない。いつも一人で活動ができるような位置を探してきた。

この文章は、響くのです。

ぼくは、自分の読んだ本をブログで紹介しています。それでも、響きます。

梅田氏の話は、こういう「記事」を読んだときには面白い、と思います。

けれどBlogや、読んだこと無いけど「作品」になると詰まらない。

一言で言っちゃえば、「合わない」というだけのこと、なのかも。

むー、延々と書いてきたけど、中身が無さ過ぎる。けどまあ、良いか。

中身がないからトラバは飛ばさないことにしよう。

さすがに一作くらいは読んでおくべきかなぁ・・・。