「勝手に絶望する若者たち」は自分のことを笑えるか:ITpro
「勝手に絶望する若者たち」は自分のことを笑えるか:ITpro
うーん・・・、と唸ってしまいました。
自分で思い当たる節もあり、「後輩」に思い当たる節もあり。
ぼくは現在29歳で、まさに「就職氷河期組と呼ばれる時代に入社してきた人たち」です。
就職する前から、社会には絶望しか感じ得ませんでした。
そしてその絶望は、いま以てなお顕在です。
何に絶望しているのか。
一言で言えば、「閉塞感」という感じになるでしょうか。
どこにも出口が見あたらない感覚。
決して暗く沈んでいるわけではない、というのが肝要。
それなりに幸福で、裕福で、満ちている。
けれど完全に満たされる事はなく、いつでもちょっとだけ「何か」が足りない。
「悩んだり,落ち込んだり,愚痴ったりする前に,自分のことを笑って」みてはいかがでしょうと申し上げたい。と筆者は言います。
けれど、「笑う」対象が見あたらないのですね。
言葉遊び的ではありますが、「嗤う」ことは出来るかもしれない。
全てが少しずつほどけているような、妙な感覚を受けています。
密度は増し、たくさんの情報が溢れている事は間違いない。
けれど、それは「量」が増しているだけに過ぎず、よく見ると繋がっていないのではないか。
折り重なっているだけで、それぞれは個別にしか動いていないのではないか。
Network、という尺度で眺めれば、それは勘違いに過ぎないことは分かる。
だけど、それはinfrastructureが繋がっているだけなのではないか。
情報網と人間を繋ぐinterfaceは、実は壊れているのではないか。
それは、browserとかそういうsoftware部の話ではありません。
なんと表現すればいいか、上手い言葉が思いつかないのですけれど。
昔取った杵柄で、NeuralNetworkを例に取ってみます。
細胞の数は増え続けている。それも爆発的な勢いで。
けれど、軸索は決まったpatternでしか繋がっていない。そんな感じ。
このまま情報密度「だけ」が増え続けると、どこかで爆発が起きるような気がします。
それは個々人の頭の中でなのか、それとも社会という枠の中でなのかは分からない。
見通しはどんどん良くなっている。けれど、風通しはどんどん悪くなっていっている。
一見すると矛盾しているような状況が、じわじわと広がっているような気がします。
その先兵となったのは、なんとなくですが、携帯電話かな、と思ってます。
物理的な制約を目に見える形で取り払ったのが、携帯電話だからかもしれません。
後の世代との断絶は、どんな時代にもあったことは多くの場で語られています。
ただ、この時代で進行している断絶は、歴史だけでは学べない種類なのかも。
どこかで、くるっと大転換が起きることは確実、ということだけしか分からない。
そしてぼくらの世代は、どちらに属することも出来ない、中途半端な位置にいる。
「就職氷河期」というのが大きな問題なのではないと思うのです。それは結果でしかない。
もっと大きいのは、技術的な過渡期の真っ直中で性徴期を過ごしたことだと思います。
両方の状況が「見える」。けれど、どちらにも属することが出来ない。
その結果が、どうしようもない閉塞感を生み、絶望に繋がっているのかもしれないな、と。
あ、いや、他の人がどうなのか、なんてことは知りませんけれどね。
無理やり纏めます。
時代(社会)の進化に、人間の進化が追いつけていないのではないか。
時代を進化させている、その動力源は人間。それは間違いない。
けれど、自らが回している「輪」を見ずに、ただ闇雲に回しているだけなのではないか。
Negativeな意味にしか取れないと思いますが、Negativeな訳でもないのです。
いつか必ず、人間は時代を捉える日は来る。
けれど捉えたとき、時代に「迎え入れられる人」は限られる、そんな気がして仕方ありません。
それは、「こちら側」と「あちら側」なんていう小さなものではない。
とここまで書いて気が付いたら、ものすごい勢いで関係ない方向へ脱線してますね。
収集付かなくなりそうだし、元の路線に戻すのも難しそうなので、これにてお仕舞い。