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JUGEM IT! from 小寺信良:携帯フィルタリング、やるべきはソコか? (1/3) - ITmedia D LifeStyle

真っ当です。

これ以上ないくらいに真っ当です。

しかも、別に難しいことを要求しているわけでもないです。

小寺信良:携帯フィルタリング、やるべきはソコか? (1/3) - ITmedia D LifeStyle

けど、出来ていないのが現状なんですよねー。

なんでだろ♪なんでかな♪

なんて、音符付けてる場合じゃないんですけど。

"Filtering"という技術全般に言えることなんですが、しょぼ過ぎです。

ほんと、spam filterがようやくまともになってきたかな、って程度でしょう。

いわゆる"Contents Filter"の類は、まともなものって無いと思う。

実際に調べ物をさせていると、該当レベルではほとんど規制にひっかかって何の情報も取れず、調べ物ツールとして成立しなかった。
その結果、
次第に娘はPCを使わなくなっていった。
となるのは必然でしかないです。

本来の目的を無効化してまで執る手段。Nonsenseの極みです。

PCを使わなくならなくても、filteringを無効化するcaseが圧倒的に多いはず。

これじゃ、なんのために制限したんだか分からないです。

まず、何が「まとも」なのか、から始めるべきでしょうね。

Fire Wallなんかは、閉じられた世界の門なので、必要な通信を把握するのは容易です。

ま、その世界で必要なものを理解している管理者がいれば、ですけれども。

Traffic Flowをきちんと追いかけることが出来れば、制御は充分掛けられる。

また、必要な通信が通らないことに気付いたときにも、容易に設定を変えられます。

そのSystemを使っている母数が、そんなに多くはないから。

こういう状況において、「まともな」filteringを実現するのは、簡単と言える。

まあ、手間は掛かりますけどね。出来ないことはない。

けれど、対象となる世界が"Internet"の場合。

これはねー、無理だと思う。というか不可能。手間とかの問題じゃなく、ね。

母数の多さもそうだし、通信の多様性もその通り。

何故かと言えば、先に挙げた「まともさ」が存在していないからです。

誰かの「まとも」は、別の誰かにとっては「まともじゃない」のですよ。

なんでそうなるかと言えば、それが"Internet"というものの本質だから。

みんながみんなの価値観で、思い思いにuploadしているのがInternetです。

上げている人たちにとっては、それらのContentsは「まとも」なものなんです。全部。

もちろん、法律に引っ掛かるとか、そういうことを分かってやってる人もいます。

それらは、社会的には「まともじゃない」けど、Internetにおいては「まとも」なんです。

だって、誰かが見るから、それはuploadされるわけですから。

みんなが歯牙にも掛けないんであれば、誰も上げようとは思わない筈です。

えっちなのとか、犯罪のとか、それを上げることによる対価が目当てなんですから。

でも、子供の教育上良くないものという括りにおいては、「まとも」は規定できる。

そういう主張もあります。というか、それが主流だと思います。

けど、それを決めるのは誰でしょう?政府?企業?違いますよね。

それを決めるのは、「社会」です。

親ですらない、とぼくは思います。親の意見は「社会」に大きく左右されるので。

Contents filterに限らず、「緩やかなfiltering」が必要だと数年前から思ってます。

今回の規制に限らず、Internetという世界には、ある程度の障壁が必要なんじゃないかと。

それは、Fire Wallのような静的なものでは、網羅することは不可能です。

かつてのspamとの争いを想像すれば、そのことは容易に分かると思います。

制御する対象が非線形なものである以上、対応するには動的なものが必須なのです。

その部分に適用できるものは、Neural Networkなのではないかと考えています。

現に、"Bayesian Filter"によって、その効果は実証済みですしね。

問題は、このfilterを「教育」するのは誰か、ということになります。

個々人の使い勝手に合わせて教育できるのがmeritなのですが、初期値は必要だから。

まず基準値となる値を設定して、そこから「個性」を発展させていかなくてはならない。

また、個々人という最小単位だけではなく、社会単位の大きな括りも必要と思います。

となれば、まず、第一段階の教育を施すのは、政府が妥当になると思います。

法律に基づいた明確な「悪」を決めることが出来るのは、政府以外に無いからです。

きちんとした手続きと、明確な可視化を絶対条件として、任せるようにするべき。

もちろん、その行為が正当かどうかを評価する外部機関も必要になるでしょう。

ただ、律法社会への移行が進んでしまうと、これは当て嵌まりません。

最下層のfilterは、必要最小限でなければいけない。

「駄目なものは駄目!」という四角四面では、「緩やかな」なんて到底言えない。

重要なのは、重ねていくことで目を細かくしていくことなのです。

幾つもの階層に分けて、filteringは被せていくことが出来ます。

上位になればなるほど、その目はきめ細かくなり、より「個性的」になっていきます。

このfilterを、閲覧だけではなく、Serviceにも適用していくことが望ましいでしょう。

さらに、その「個性」をfeed backすることで、より「一般的」な制御が行えます。

当然ながら、そのfilterを使うかどうかは個人の判断に委ねられるわけです。

SNSというのは本来、このfilteringを行うためのものだったと個人的には思ってます。

「知り合いの知り合いは安心」という概念は、「緩やかなfiltering」に他ならない。

現実世界においては、既にこのfilterは存在しています。

気に入らない場所には近づかない。

気に入らない人とは交流しない。

気に入らない集団には入らない。

もちろん、そのfilteringの効力は万能ではありません。

けれど、一定の効果は確実に上げることが出来ている。

それを行っているのは、言うまでもなく各人の脳です。意識です。

その括りが、より薄く、より広範になっていったものが、つまり法律。

それはなにも、訴訟や闘争を意味するのではない。詐欺に直結するようなサイトの情報をきちんと伝えて、それを多くの人同士で共有していく、つまり薄暗い物陰に光を当てるということでも、十分な自浄効果は得られる。そういう点で筆者は、世の中には悪いヤツよりいいヤツの方が人数が多いと信じている。
という概念は、Systemの中に組み込むべきだと思います。

きちんとしたfeed backが、滞ることなく循環するような仕組みは、強いですよ。

まさに、「流れる水は腐らない」のです。

流れを堰き止めることが、実は一番簡単なことなのです。

けれど、堰き止めてしまった流れは、そのうち溢れるか、もしくは腐る。

それを防ぐには、流れを有効に活用しつつ、脅威となる部分を適切に処理していくしかない。

その行為には手間が掛かるし、面倒臭いこと極まりないと思います。

けれど、そうやって手間暇を掛ければ、慈しみが生まれてきます。

生活に密着した処理は、時を重ねていく中で、生活そのものに昇華していくのですから。

この行為は、日本人が本来得意とする分野であるはずです。

「治水」というものが不可欠だった国土を鑑みれば、それは明らかです。

柔よく剛を制す、なのですよ。何事もね。

※追記

ここで書いた考えが明確な形になった切っ掛けは、ised@glocomです。

「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」というthemeが、その中身を明示しています。

かなりの分量がありますが、いちど目を通しておくことをお勧めします。

ちょっと昔の話になっちゃいましたが、今でもその価値は褪せていないと思います。