漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

ニ族とヲ族

すごいすごい!

ぼくが思ってたことが、悉く網羅されてるー!

しかも、その一つ一つがより先鋭的で洗練されてる!

「血の海」を泳ぐ日本 - 材料で勝つ - Tech-On!

とりあえず読むべき。

そんで、振り返るべき。見つめ直すべき。捉え直すべき。

そして最終的に、考えてみるべき。

日本という国のもつ特殊性というのを、みんな知らなさすぎだと思うのです。

それはまさに、

「相手に合わせる」こと自体が目的化している日本人
ということなのです。

ここの部分を見失ってしまうと、せっかくの特色を潰してしまうことになる。

「合わせる」ことは、決して「隷属」ってことでは無いのです。

その行為が、もしかしたら卑しいものに見えるような人もいるのかもしれない。

けどね、そんな目を持っていることを、その人は恥じるべきです。

日本語という言語が、その特質をよく表していると思います。

というか、この言語を使っているからこその民族性なのですけれども。

日本語という言語は、極めて柔軟性に富んだ言語です。

激しい対抗なんて有り得ない。むしろ、全てを取り込もうという貪欲さを持っている。

どんな外来語であっても、無理やり日本語に変換するような事はしません。

面白いのは、その言葉が異質であればある程、取り込む為の手法を創りだしていること。

もちろん、対象となる言葉の重要性を、敏感に感じ取った上で行うのです。

それほど重要性が高くないと判断すれば、捨て置いて朽ち果てさせる。

そして、この取捨選別を行うのは、顔無き民衆たちなのです。

お上からの号令一発で、言葉が根付いていくような事例は稀なのではないか。

調べてないし門外漢なので、完全に直感に依るものなのですが。

これだけ多種多様な民族が、世界中には散らばっています。

気候、食生活、歴史、様々な単位、そして、言葉。

本当に、目眩がする程の差違が、それぞれの民族間には存在しているのですよ。

その事を無視して"Global Standard"なんて、あまりに馬鹿げているんです。

そんなこと、端っから自明なんです。

「交流」の本質とは、相手を認識することです。理解することではない。

これは、国際間に限った話ではありません。

自分とそれ以外との関係、その全てに当て嵌まることだと、ぼくは思っています。

その上で、もし「理解」することが出来るのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。

裏を返せば、相手を理解できるなんて事は、そうそうあるようなもんじゃないんです。

さらに言えば、相手から理解してもらえるなんてのは、まさに奇跡でしかない。

相互理解なんて、言ってみれば「神業」なんですよ。

その前提に立って、改めて世界を眺めてみれば、見えてくるものは沢山ある。

自らが最も優れている部分は何か。その要因となっているものは何か。

その認識を基に、では相手はなにが優れているのか。その要因は何か。

この対比を、より細密に、繊細に、そして多面的に行うこと。

自己認識と他者認識が、世界戦略の土台として存在していなくてはならない。

戦後、日本は自らを省みることを、明らかに怠けてきました。

そのツケが、現在にまわって来ているのだと思います。

競争相手の動向分析なんかは、それなりにキチンと行ってきていたのだと思います。

しかし、相手の分析を行うことは、自らの性質を揺らがせることに繋がる。

相手の分析を行うなら、まず、自らの軸をガッチリと固める必要があるのです。

その基盤がないと、自らの価値観は簡単に揺らぎ、相手の長所ばかりが目に付くようになる。

隣の芝が青く見えるのは、自分の庭へ掛けている手間暇が足りないから、なのです。

「日本流」で何が悪い?

そう言い切れる強さを、ちゃんと持って行ければ良いのです。

同時に、こっそりと相手の良いところだけを取り入れていけば良いんですよ。

他のみんなとは違う性質を持っていることは、明らかな優位点に成り得ます。

他のみんなと違うってことは、即ちBlue Oceanって事なんだからね。

「場」だけではなく、「空気を視る」ことが出来るのが、日本の文化。

その特殊能力を活かす対象は、まだまだ世界中に埋もれているのですから。