漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

生きにくい世の中です

糸井重里という人物は、面白いよなぁ、と思う。

こういう話を、さらっとあっさり言っちゃえるのはすげえ。

しかも、話の中身が分かりやすいし。

「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる

前にどこかで読んだのですが、最近のみんな、必要以上に潔癖過ぎると思うのです。

「それは間違っています!」なら、確かにそうですね、と納得できることもある。

というか、それが無いのは寂しいし悲しい。

YES-MANだけに囲まれて過ごすことは、ゆっくりと腐っていくことと同義だから。

だからといって、何でもかんでも「間違いは許しません!謝罪を求めます!」ではねぇ。

それって、一昔前の「委員長モデル」じゃないかと思うわけですよ。

そこで書かれていたcharacterは、決してpositiveなものでは無かったはず。

けれど、Webの言網界においては、「委員長」が増えてきているのが現状。

それも、より過激になりながら。

何でもかんでも四角四面に決められるのなら、それはとても楽なことだと思います。

だけどそれって、巡り巡って自分の首を絞めることに他ならないと思うのです。

堅っ苦しい社会がお望みなのかもしれないけど、ぼくは嫌だなぁ。そんなの。

米国が訴訟大国なのは有名です。

そして、アメリカには、そうならなければならない土壌がある。

けれども、日本にはそういう土壌はそもそも無かった筈です。

同じ言葉を同じ意味で話す事が出来、価値観も大きく違わずに共有することが出来た。

それが可能だったと言うことは間違いなく長所であり、誇るべき事です。

阿吽の呼吸で話が終わるというのは、とてもsmartなことだなぁ、と思うから。

ruleに頼ると言うことは、最終手段にするべきだと個人的に思っています。

当人同士の問題は、当人同士で解決できれば、それに越したことはない。

当人同士で解決できなければ、もう一つ大きな枠内で解決すればいい。

どんどん広げていった最後が、例えば国家による調停にならないと。

異なる文化形態間の問題ならば、枠はいきなり大きくならざるを得ない。

だから、アメリカという国家は訴訟大国にならざるを得なかったと認識しています。

その代わり、枠の中においては自由を保障する。

そういう文化が定着しているから、言うべき所というのもキッチリしてる。

大きな物語としての共通認識が崩壊してしまったことが大きいとは思います。

もともと日本にあった、なんというか、緩やかな許容という文化。

それって、「余裕」ってことに他ならないのではないかな、と思うのです。

他の言葉で言うなら、「行間を読む」とか「心情を汲む」とかね。

それが可能な社会というのは、とても高度な社会だと思うのです。

悪いことは悪い。それは正論です。

それを突き付けられたら、黙って俯くことしかできなくなる。

悪いことを見逃すことが良いことであるはずもない。

ただ、「悪さ」というのは決まった事柄ではない、と思うのです。

「悪戯」から「罪悪」まで、白から黒へのgradationになっている。

そして、そのどの部分までが許容されるべきなのか、ということです。

悪戯の範囲まで「罪」としてしまうのは、んんんん、と唸らざるを得ない。

これも、つい最近どこかで読んだんですが、どこで読んだのか思い出せない・・・。

正義の旗を振りかざすのは、そりゃあ気持ちの良いものです。

けれど、罪の数が増えることは、罪の陳腐化に繋がると思います。

やばいものは、少数だからこそ際だつ面があることを忘れちゃ駄目だと思うのです。

これは、「素晴らしいもの」と全く同じ考え方になります。

何でもかんでも「素晴らしい」と言ってたら、「素晴らしい」の価値が下がる。

陳腐化というのは、正にも負にも等しく降りかかるものだから。

というか、ぼくはものすごい粗忽者なので、重箱の隅を突っつかれ過ぎるのはしんどい。

もっとこう、寛容な心で他人と接する文化であって欲しい。

「間違ってるよー」くらいで終わらせてもらえるとありがたいなぁ、と。

気を張りつめなくても、気楽にほわわ~んと暮らせるくらいが良いなぁ。

甘えてるだけ?うん、多分そうなのですけれどもね。