漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

「DS文学全集」

N.O.Mの特集にあったinterviewがとても面白かったので。 Game categoryのいちばん初めがこれかって感じですが気にしません。 まず、青空文庫をDSで読もうという発想が素晴らしいです。 知る人ぞ知る、という感じだった青空文庫ですが、普及率は今ひとつだったと思うのですね。 青空文庫の試みはとても崇高だし、価値のある素晴らしいことだと思ってました。 けれど、なかなかPCで読もうという気になれなかったのも事実。 T-timeとか、Softwareがあっても、ね。 理由は様々ですが、一番大きいのは、やっぱり読む「環境」だと思うのです。 PCと云うのは、あくまでも私見ですが、「文学」を読むtoolでは無いかなと。 それは、習慣に因るものも大きいとは思います。 でも、それだけが原因というわけでも無いのではないかと。 とても些末のようだけど、明らかな違い、それは縦書きと横書きの違い。 これは、先に挙げたようなSoftwareを使えば、解消出来る問題でもあります。 あとは、layoutであったり、fontであったり。 そして一番大きいのは、「手触り」かと思います。 本というmediaは、なんというか、「しっくり来る」のです。 持った感覚や、頁を捲る感覚、中断して栞を挟む感覚、そういう一つ一つの感覚。 そういうのを全部含めて、文学というものは存在している感じがします。 けれど、DSというtoolは、この壁を打開出来るような気がしています。 そう思った理由が、このinterviewです。 producerの山上氏が、こんな発言をされています。
必ずベースにした本である“底本”と比べるということをやっているんです。でも、その底本の表記が、今の考えから読めば、「これは誤植ではないか?」というのがあるわけですよ。それを安易に直そうとすると、「ちょっと待ってください!」と青空文庫の富田さんが仰る。「私たちの日本語の能力は、狭いんです」と。「先人たちは、日本語というもののありとあらゆるテクニックを駆使して、己が想う表現力を最大限に紙面に叩き付けた結果、この表現が生まれたかも知れないんです!それをなぜ、私たちが誤りだと決められるんでしょう。」と。そしたら「仰る通りでございます! とてもこれが誤植には見えません!」って言うしか(笑)。
昔の偉人たちが、日本語というものをいかに駆使して世の中の事象を表現していたかということ、豊かな表現というものを知ることができるのではないか
映像で伝える手段がなかった時代だから、言葉が豊かだったんでしょうね。あの豊かな表現を知るということは、自分を豊かにすると思います
ああ、分かってるなぁ、と。 勿論、青空文庫の方々から受けた影響も大きいと思うのです。 けれどたぶん、一番大きいのは、作品そのものから受けた刺激だと思うのですね。 過去の名作というのは、名作であるからこその「力」を秘めています。 言語化するのがとても難しい感覚なのですが、「オーラ」的な何か。 それに接すると、問答無用で納得させられるものがあるのです。 青空文庫の富田氏が、こんな発言をしています。
先人たちがたくさん書き残してくれた文字の表現、小説だとか評論だとか論文だとか、そういうものは読みたいと思ったときに、与えられて然るべきだし、そういう社会環境を用意する準備が、我々の文明にはすでに整ったと。成熟した社会では、こういう甘い希望だとか理想が力を持つ局面があるんですよ。綺麗事なんだけど、その実現に向かってやってみる価値はある。
そう、まさにこの通りだと思います。 実際に触れることでしか得られない経験、というものは確実にあります。 その機会として、DSというのは面白い選択なのではと直感が告げています。 とりあえず、今度買ってこようと思います。 それにしても、任天堂って懐の深い会社だなぁとつくづく思いますね。 DSにせよ、Wiiにせよ、生まれるべくして生まれた土壌を感じさせます。 そもそも、ファミコンの発想が素晴らしいですもんね。