"professional"の文章
やっぱ、「売文家」の文章ってのは違うなと。
なんというか、ずしーんずしーんと響く。
元記事の主題からは大きく離れてしまいますが、まあいつものことと言うことで。
音楽における「物語性」はスコアに宿る。中田ヤスタカを考える(冬休み補修ヴァージョン)その4 - POP2*0(ポップにーてんぜろ)
耳も心も痛い痛い。
手頃な長さで読みやすいんだけど、「結局は何も語ってない」「どこかで書いてあったものの要約に過ぎない」ってブログ、たくさんあるじゃん。
気を付けたいなと思いつつも、ついそっち側に流れてしまいます。
「何かを語る」こと、それも「自分の言葉」で、というのは本当に難しい。
当Blogも、基本的には何かから影響を受けて書いている記事が殆ど。
なのにも関わらず、パッと思いついた発想から、話を広げて言語化して纏める。
という過程に収まるものは、実際問題として、かなり少ないです。
ぶわーっと勢いで書いてみたけど、結局何も中身が無いなー、という事も往々にしてあります。
言葉を制御し、導いていくことは、明らかに訓練の賜物なんだと思い知るわけです。
ぼくはあらゆる物事について、専門的な知識を殆ど有していません。
それは密かな、けれど強烈なcomplexだったりします。
咀嚼して、自らの血肉にしている、という自負もそれなりにあったりします。
けれど、あくまでもその原型は別の場所にあって、決して自分のものではない。
だからこそ、「表現者」という存在には、ほぼ無条件で降伏してしまう。
それが悪いことだとも、全く思っていないのですけれども。
たくさん説明しないとわからないものというのは、たくさん説明しないと伝わらないものなのよ。というのは、まさに真理だと思います。
手軽に纏めた記事のほうが、確かに簡単に分かったような気にはなれる。
けれど、そういうものって「残らない」ことが多いのも、また事実。
こう、しつこいほどの情熱でもって、延々と微細なことまで記した文章というのは、やはり違う。
読むのは大変だし、その中身を理解するのはさらに大変。
けれど、そこまでして読み、理解したことに関しては、多分ずっと忘れない。
「文章を読む」ということは、おそらくそういうことなんだろうと思う。
ただ、短い文章が駄目なのかと言えば、そんなことは全然無い。
符丁的な意味合いで、シュパッ!と一閃するかのような文章というのも確かにある。
その符丁が通じる広さが、その文章の価値に比例していくのです。
そして、そういう瞬発力に満ちた文章というのは、長文では有り得ない。
たった数文字であるからこそ、その価値が生きてくる文章というのも確実にある。
ぼくは、そのような文章がとても好きで、憧れています。
と言っても、いわゆる「名言」ともちょっと違います。名言も好きですけれど。
鋭い刃のような、その「場」を一刀両断に切り捨てるかのような、そんな言葉です。
切り捨てる、と言うと穏やかではないですが、nuanceを感じ取って頂ければ。
両者に共通しているのは、どちらにしても、書き手に多大な労力を要求する、ということ。
長文を書き続けるというのは、やってみれば分かるけど、体力的にかなりきつい。
いや、書くだけならば、それほど労力は必要とはしないです。
でも思いつくままに書いていくだけでは、それは文章の体を為していない事になりかねない。
要所要所で読み返し、きちんと同じ方向を向き続けていられるかを確認する必要がある。
tensionの保ち方、読み手を飽きさせないような小技、みたいな事も必要になる。
ちなみに、ぼくが出来るなんて言えません。実際に出来ないですし。
ここで、最低限必要になるのは、ただひたすらに、持久力。
長距離走に例えられることも多いです。
では、短文には持久力は必要ないかと言えば、それは間違い。
世に出てくるのは、確かに短い一文だけなのかもしれないです。
けれど、その文の背後には、累々たる「それ以外」が積み重なっている。
書き続ける持久力ではなく、考え続けられる集中力が必要になるのです。
もちろん、天才的な発想力を以てすれば、条件反射で事足りるのかもしれません。
でも、そういう能力を有している人というのは、ものすごく少ないはず。
いろんなMediaが登場して、しっちゃかめっちゃかになりかけています。
けれど、基本的な部分というのは、Mediaの種類では揺らがない、と思います。
揺らぐとすれば、幻惑されて踊らされた受け手によって、だろうな。
そして、それも遠い未来の話では無くなりそうな雲行きで、ちょっと嫌だなと。
そういう時に、このような"professional"を見ると、ちょっと安心するのです。
やっぱ、ずしんと来る文章というのは、何かを変える。自分の中で。