漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

“日本型モノづくり礼賛論”に死角はないのか?

根本的なところが間違っていると思いました。

「世界戦略」という言葉に踊らされている好例なんじゃないかな、と。

“日本型モノづくり礼賛論”に死角はないのか?(1/3) - @IT MONOist

徒弟制度は、決して悪い面ばかりではありません。

むしろ、「ものづくり」の本質は徒弟制度にしかないとすら思います。

一番大きい問題なのは、技術者の扱いが悪すぎる事に尽きると思います。

いわゆる熟練工がこれほど虐げられている状況は、ちょっとどうかと思います。

仕事の質によって、差別化を図るべきだと考えます。

組み合わせ型が有効なのは、単純作業が前提の職種に限られます。

標準化が武器になりうるのも同様です。

しかし、それは「ものづくり」の本質とは違います。

「ものづくり」の本質は、その前段階にこそあるのですから。

そして、その部分に必要な人的資源は、多くある必要はありません。

人口減少は、大きな驚異とはなり得ないのです。

現状における問題はもう一つあります。

それは、「組織」の作り方と運営の仕方が、極めて壊滅的であるという点です。

組織である以上、きちんとした役割分担が前提とならなければいけません。

そして、「部品」としての人材を適切に評価する機構が不可欠です。

仕事は個人ではなく、部門として行う必要があるのですから。

能力が落ちるのは勿論、枠に嵌りきれない人材の扱いも重要になると思います。

ところが、このような組織論を前提にした強固な体制はまず見られません。

大衆向けの製品だけを作っているだけでは、本当に優秀な人材は集まらないと思います。

製造業においては、long tailという概念は成り立ちません。

と言うよりも、それが成り立つのは商社や物流といった世界の、ほんの一部分だけでしょう。

むしろ、Pareto's lawが支配する業界が殆どであることは、これからも変わらないと思います。

ものづくりの現場は、大衆向け製品で貯金を作り、前衛的な開発に回すのが理想。

前衛的な開発現場から生まれたものを量産化し、大衆向けへと移す。

このような循環構造が適切に回ることこそが、最も肝要な部分なのではないでしょうか。

この循環を回すという部分こそが、堅牢で安定した組織を運用することと同義だと考えます。

組織を運用するに当たって必要なのは要素、つまり人材の成長。

けれど、人が一人で成長することは、まず不可能だと言っていいと思います。

特に、専門分野における成長の前提には、しっかりとした教育が絶対に必要です。

これを画一的に行ってしまうと、そこには「余地」が無くなります。

確かに、「方法」に関しては簡単に言語化することが可能です。

実際、世の中に「方法論」が溢れていることは、改めて述べるまでもないでしょう。

けれど、本当に重要なのは「方法」ではなく「感覚」。

そして、その「感覚」というあやふやなものは、言語化できるようなものではありません。

この「感覚」が、製品の性質を決め、ひいては伝統へと繋がっていくものだと思います。

「感覚」を言語化してしまったことが、停滞へと繋がった原因のようにも感じます。

言語化してしまうと、「それ」は固定化され、止まってしまうからです。

固定化されてしまった「感覚」から、その先の展開は望めません。

相互の「感覚のずれ」からこそ、「次」の何かが生まれてくるのだと思うからです。

高度成長期の日本が強かったのは、前衛的な部分を担う会社が多かったからだと思います。

海外で生まれた技術を流用し、改善する。

もしくは、様々な技術を組み合わせて、新しいものを生み出す。

業界の先端を走り続け、多くの模倣を生み出す雛形的な企業が、どの業界にもありました。

けれど、時代変遷の速度が増すにつれ、その企業たちは相対的に後れ始めます。

となれば、後続の企業は模倣する対象を失い、結果として速度の減少へと繋がる。

参考にしていた海外勢と、同じ位置まで進んでしまったことも大きいのでしょう。

これからの現場に必要なのは、「貢献」を計るための物差しを確立することだと思います。

目に見えるような数字だけではなく、その意味や将来を包括した「貢献」。

そして、その度合いに応じた適切な「格差」を適用していくことだと思います。

要は、経営層や管理者層と言った上層部を何とかしないと始まらない。

「技術」を売る会社なら、上層部は「技術の価値」を知ってなければ話にならないですから。

現場の人間たちが持っているpotentialを、適切に見極めて評価できること。

そして、「文化」に応じた効率的な組織を作り、運用すること。

経営層の仕事とは、この二点に尽きると言っても過言ではないと思います。

ゆとり教育やなんやで多少落ちたかもしれないですが、教育水準の高さは顕在だと思います。

あとは、その高度な基礎部分の上に、何を積み上げていくことが出来るのか、だと思います。

表面的な「価値観」は変化しても、根底を流れる「価値」というのは変わらないと信じます。

その「価値」を伝承していくのが、「大人」の役割なのではないかと思う次第です。

たぶん本質的なものというのは、単純で素朴なものでしかないんだから。

余計な装飾がくっつきすぎたせいで、重くなって動きづらくなってるだけ。

日本という国家が積み重ねてきたものや、進んできた方向は、決して間違って無いと思います。