漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

ギリギリの価値観

つらつらと書いてみる。

ちょっと(だいぶ?)、前に流行った「究極の選択」。

「1人しか助けられないとき、妻と子供どちらを助ける?」みたいな。

いわゆる熱血主人公なんかが、どっちも助けてみせるぜ!なんて言うやつ。

個人的には、そういう分かりやすくど直球な作品というのは好きです。

そういうときに初めて表に出てくるような、そんな価値観。

ものすごく単純で、それ以上細分化できないような価値観。

人間関係において、最も重要なのはその部分なのでは。

表に出てこないとはいえ、全ての基軸となる部分なのではないか。

そういう部分が何で育成されるのか、という部分も重要。

生きるか死ぬかの限界点を経験したかどうかで、確実に最後の選択は変わる。

また、生活環境や人間関係などの生い立ちによっても、これは正反対になり得る。

そういう、刷り込みに近いような経験があれば、根本から価値観はひっくり返る。

けれど、そういう劇的な経験なんて、まあ普通は発生しない。

少なくとも、日本という安寧な国家で生まれ育っているうちは。

生まれ育った国家、なんていう大枠そのものが違えば、価値観の軸が変わっていて当然。

同じ国家で生まれ育っているのであれば、根本的な価値観は共有しているはずだと思う。

表面的な部分では違っていても、最終的な部分では似通ってくるものではないだろうか。

だけど、それでも根本的な部分の価値観が全然違うという場合の方が多かったりする。

表面上の選択を見ているだけでも、その本質的な傾向というのが見えてくる場合が多い。

その状況を客観的に見たとき、これじゃ絶対に合意なんて無理だ、という感じを受ける。

むしろ、違う環境で育った同士の方が、違いを自覚できる分マシなのかもしれない。

同じ共同体にいるのに違ってくる状況が最も多いのは、世代間だと思う。

なんで、このズレが出てくるのだろうかと考えてみた。

たぶん、その最も大きな要因は、若い世代が持つ影響の受けやすさ。

外部からもたらされる価値観を、比較的容易に受け容れることが出来る。

その柔軟性の核となるのは、偏に経験値の不足。

「これが正しい」という確信を得るには、同じ状況での因果を積み重ねるしかない。

その繰り返しによって、「この場合はこうする」という「法則」が生まれる。

慣習として残されているものの殆どは、こうした経験則の名残というのは言うまでもない。

経験則として伝承されるものは、伝達効率の問題から、因果の部分だけに削ぎ落とされる。

そして、盲目的に従うことは、判断の迅速性と負荷の軽減へと繋がる。

なので、何か大きな問題が発生するまでは、その法則が崩れることはない。

崩れる場合には、大きく2種類の原因がある。

先にも書いたように、その法則が通用しない状況にぶつかったとき。つまり例外。

この場合は、法則そのものが消えることは少ない。

一時的な手当を施して様子を見ることで、当座をしのぐことが出来るから。

そして、その後の因果を観察し、結果的に変化無しであれば、その法則は確実に存続する。

問題は、もう一つの原因。

因果の繋がりを誰かが解明、分析し、より効率的な法則を見出した場合。

この場合に発生するのが、いわゆる世代間の溝(Generation-Gap)

旧世代にとっては、新しい法則を信じられるだけの根拠が無い。

それは新世代にとっても同じだが、旧い法則を信じる根拠も、旧世代に比べれば貧弱。

なので、新しい法則の魅力(確からしさ、受利益など)に懸かっている。

魅力が強大なのであれば、新世代は雪崩を打つように新しい法則へと移っていく。

旧い法則と新しい法則の立ち位置が完全に重ならないなら、特に大きな問題はない。

旧い世代は、新しい世代の振る舞いに眉を顰めているだけで良い。

新しい世代は、旧い世代の振る舞いを馬鹿にし、嘲笑うだけで良い。

その溝が埋まることは、たぶん永劫に無いのだから、無理にすり寄る必要性はない。

けれど、2つの法則が、限られた資源の取り合いになるのなら、深刻な状況になる。

お互いに、自らが信じる法則が絶対だと思っているのだから、譲ることは有り得ない。

最終的には、力対力のガチンコ勝負へと突入する以外の道はない。

ガチンコ勝負というのはZero-Some Gameなので、負ければ全てを失う事になる。

なので、多少の妥協でそれを避けられるのであれば、そちらを選ぶ場合が多い。

もちろん、その時に重要になるのは、自分の方が相手よりも妥協点が小さいと言うこと。

なので、その部分が騙し合いになることは必然。

相手の方が損になる取引を、いかに相手が得になっているように思わせられるか。

もちろん、お互いが重視する点が異なっていれば、比較的平穏に取引を行うことが出来る。

だが、お互いが譲れないと思っている部分が大きければ、取引は基本的に決裂する。

譲れない部分が重なっている大きさと反比例で、駆け引きの材料となる余地は狭まる。

つまり、必要な資源が重なり合っている部分の大きさで、ガチンコへと発展する可能性が決まる。

一番良い解決法は、お互いが冷静に相手の法則を理解することだというのは言うまでもない。

結果として、相手の法則の方が優れているのであれば、そちらに乗り換えた方が良い。

けれどそれは、対象が法則、つまり方法論なのであれば可能だが、基準そのものだと、難しい。

基準とは価値観であり、それはその人の存在理由(Identity)に直結するから。

しかし、それが基準なのであれば、基本的には資源の取り合いへと発展することは少ない。

基準というのは精神的なものであるから、そこの資源というのは無限に存在する。

なので、限られた資源の取り合いなんて事態に発展することは有り得ないと言える。

以上から考えれば、基本的に、ガチンコ勝負なんてものは発生しないという結論へ帰結する。

ところが現実に目を向けてみると、ガチンコ勝負へと発展する場合が多かったりする。

ガチンコ一歩手前の泥沼化に陥ってしまう状況は、ウンザリするほど巷に溢れていたりする。

その原因は、いったい何処にあるのか。

原因は、たぶん一つしかない。

「基準」と「方法」を混同している、ということ。

その「方法」を否定されたからといって、その「基準」が否定されるわけではない。

それが真理であるはずなのだけれど、その境地に達するのは、なかなか難しい。

その理由は、始めに述べた「ギリギリの価値観」に戻る、と思う。

つまり問題の焦点は方法なのか?それとも基準なのか?

それを決めるのが、「ギリギリの価値観」なのだと思う。

ある一方から見た場合、それは方法であり、もう片方からは基準に見える。

こうなったとき、お互いの会話は絶対に噛み合うことがない。

話し合いの焦点が、お互いに異なっているのだから、噛み合わないのはむしろ当然。

ここに気付くことが出来るか否かが、有意義な議論になるかどうかを決めると思う。

気付くことが出来れば、「方法」と思っている方が譲ることで、穏やかに決着できる。

基準と基準のぶつかり合いというのは、実はそれほど多くはないと思う。

日本文化としての「空気感」というのは、この部分の察知能力を指していたのだと思う。

見えない部分での探り合いを高度に発展させることで、「なあなあ」の文化へと昇華させた。

なので、適度に安穏で、平和で、公平で、退屈な社会が形成されたのではないかと思う。

ところが、この文化においても、根底にあるのは「法則」であることは変わらない。

外部からの文化流入や、新技術の台頭などによって、この「法則」が揺らいだ。

そして、今回の外的要因が狡猾なのは、その「揺らぎ」を限りなく小さく、長く行ったこと。

その結果、根底にある「法則」そのものをゆっくりと変質させてしまった。

「法則」というのは「固い」ので、その形が変わることは有り得ない。

だから、違う法則をぶつけることによって、存在そのものを置き換えようとする場合が殆ど。

しかし今回は、その法則の存在はそのままに、その構成要素を置き換えてしまった。

法則だけを変えても、それは方法論でしかないため、基準の変化へは結びつかない。

けれど基準というのは、単純であるが故に、固いだけではなく変質もし難い。

ところが、基準の部分を揺らがせる程の揺らぎではなかったため、ここにズレが生じた。

同じ基準と法則を持っているつもりで、法則の質は別なものに変わっている、ということ。

この「ズレ」に対する感覚が、世代間の溝へと結びついたのが、いまの状況なのではないか。

旧い世代にとっては、いまの状況には違和感が付きまとっていて、気持ち悪いと思う。

新しい世代にとっては、その「ズレ」があることが当然なので、何とも思わない。

しかも、その齟齬を理解した上で、自らの利益のために利用しているような勢力も存在する。

この世代間の齟齬というのは、かなり根深くて深刻なものなのではないか。

ちなみに、旧い世代、新しい世代というのは、別に年齢を指してのものではないです。念のため。

変化の加速度が大きすぎるのも、この状況に拍車をかけている要因なのだろう。

立ち止まり、切り分け、分析し、理解した上で妥協点を模索する、ということが難しい。

だから、常に表面上の水掛け論に終始してしまうことが多くなってしまう。

この状況が好ましいという勢力が、この分かり難くて不自然な状況を維持し続けているのかもね。

変に引き延ばされ続けているから、プチンと切れてしまったときが怖いな。

思いっきり発散してしまったような気がします。長いな、しかし。

しかも、当初書こうと思っていた結論からは、ずいぶん遠くに離れちゃってるし。

つまり、「ギリギリの価値観が共有できるような人が良いよね!」と。

それを知ることが、たぶん最も難しいし面倒な部分なんでしょうけれど。

そこへの労力というのは、惜しんでは駄目な部分なのだと思います。

って事を書こうと思った。えー?マジでー!?全然ちがくねー?