漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

自己否定の文化

日本文化の根底にあるものって、自己否定なのかなぁ、とふと思った。

といっても、「自分が嫌い」という種類の自己否定ではない。

そうではなく、安定を嫌うという意味での自己否定。

自己批判、という言葉の方が、より相応しいのかも。

世界的に見て、「過去」をこれほど蔑ろにしている文化も珍しいのではないか。

蔑ろ、というのは、ちょっと正確ではないか。別に蔑んでいるわけではないから。

なんというか、過去を「気にしない」という表現になるのかも。

慣例や慣習といったものを、無視するというわけでもない。

むしろ、そういう非論理的な情緒のようなものに固執する傾向は強い。

自己愛に否定的かといえば、それも無い。むしろ、自己愛は強いと思う。

自己犠牲という精神は、裏を返せば自己愛の発露ということも出来るから。

自分という「個」を愛するのではなく、自らが属する「群」を愛する、という感じか。

じゃあ、何を「否定」しているのか。

それは、「枠組み」とか「基本理念」とか「価値観」とか、そういう感じの何か。

同じことの繰り返しというのを、とことん嫌う文化ではないか。

それは、個人的な感覚ではなく、集団的な傾向としても鮮明だと感じる。

何に重きを置くのか、という部分の見えないところに、この思想があるような気がする。

それは、例えば"Frontier Spirit"というものとは違う。

「新しいものを発見したい」という欲求ではない。

もっと単純な、「飽きっぽい」という性質なのではないかと思う。

言い換えれば、「次」への欲求が人一倍激しいのではないか。

新しい物事を「発見」したいのではなく、ただ「求める」。

それをさらにずらして表現したのが、つまりは「諸行無常」という概念だと思う。

「色即是空。空即是色。」という概念が馴染むのも、このような下地があるからなのかもしれない。

この傾向は、日本語へと如実に現れているように思う。

ことばは文化であり、文化とはことばである以上、それは必然なのだけど。

同じ内容で、表現だけを言い換える。

あるいは、同じ表現で、中身だけを入れ替える。

そういう、小手先だけの「新しさ」というものを歓迎する傾向が強いように感じる。

また、文章表現だけではなく、絵画や音楽においてもその傾向は同じくらい強い。

然しながら、あくまでも変えるのは表面上の瑣末な部分だけに留まるのも特徴的。

対象の本質的な部分は、どこまでも優しく、そっと大切に包んでおく。

その部分が変えられるような事態には、かなり激しい嫌悪の動きが発露することもままある。

この傾向がカッチリと嵌ったのが、高度成長期の背景にあるのではないか。

小手先だけの変化というのは、つまりは「洗練化」ということ。

対象の存在意義はそのままに、余分な部分を削り、必要なものを付け足す。

そういう、部分最適化に長けていることが、あの成長に繋がったことは周知の通り。

これこそ、「自己否定の文化」の本領発揮、そのものなのではないか。

ここで、「それは『自己』ではないのではないか」という意見もある。

しかし、それもまた、「自己否定」から来る傾向なのだと思う。

自らの過去を「気にしない」から、外から来るものへの拒否反応が殆ど無い。

「異質」なものへの嫌悪感は、ちょっと尋常ではない場合が多いのは事実。

しかし、その背景にあるのは、自らへの干渉を恐れることから来る過剰な防衛反応。

「干渉」へは強固に抵抗するけれど、「取り入れる」のは呆気なく行う。

これだけを取れば、どの文化でも似たようなものではある。

けれど、日本文化の場合は、「干渉」と受け取る閾値がかなり低い。

それは従順ということではなく、受け入れる際のmechanismが一味違うのだろう。

つまり、ここでも「自己否定」という要素が発揮される。

対象となる物事は、まだ「自己」ではない。

けれど、その対象へと感情移入、もしくは自己投影することにより、擬似的な「自己」にしてしまう。

その上で、その擬似的な「自己」を否定し、表面上に細工を施してしまう。

そして、「そのもの」ではなくなった「それ」を、改めて「自己」に組み込んでしまう。

しかし、「それ」を「それ」たらしめていた部分は、しっかりとそのまま残したままで。

この複雑な手続きを、無意識のうちに行ってしまうのが、日本文化の本質なのではないか。

改めて俯瞰してみて、非常に高度で洗練された戦略だと思った。

自らを否定する、あるいは、対象を否定するということが基底にあるのは強い。

例えば否定の否定、さらには否定の否定の否定、どこまでも発展していくことが可能。

そして、否定するのにも関わらず、否定した対象を嫌うことも少ない。

むしろ、対象を嫌っているのであれば、否定することなく、ただ無視する。

好意を持っているからこそ、その対象を否定する。そして、否定された方も動じない。

否定の仕方を好意的に感じれば、さらにその否定を否定してみせたりもする。

否定というnegativeな行為なはずなのに、あくまでもカラッとして明るく受け止める。

直接的な反対というのは、むしろ受け入れられ難いことだったりする。

まったくもって評価されにくく、理解されることなんてハナから望んでいない。

その割りに、実はみんなに理解され、好かれたがっていたりもする。

まったく、どこまでも捻くれた文化。

ほんと、変な国だよ。大好きだ。まったくもう。