漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

じゃんけんの完璧さについて

改めて「じゃんけん」について考えてみると、その凄さに圧倒される。

気軽に勝負を決める手段、という立場に甘んじさせている場合じゃない。

これほどの完成度を誇り、優美で華麗な文化を、みんなもっと認めるべき。

一つ一つの挙動からして、すでに他の追随を許さない。

例えばグー。

この形に秘められた強固な意志から来る、圧倒的な存在感はどうだ。

握り締められた拳が無言のうちに語る、そんな感覚を誰しも受けるに違いない。

しかし同時に、丸みを帯びた外観からは、愛嬌すら感じさせる。

二面性を内包している、その洗練された単純さからは、気高さすら感じるではないか。

例えばチョキ。

まっすぐに伸ばされた二本の指は、希望と絶望を指し示しているのだろうか。

その横にそっと折り曲げられ、添えられる指には健気さすら感じる。

地方によって、その形すらも変わってしまうという柔軟性も見逃せない。

重要なのはその本質であり、形は飾りに過ぎないという暗黙の自己主張なのか。

例えばパー。

その呼び名からも想起されるかのような、どこまでも開放的なその形。

遮るものの無い、どこまでも広がっていく宇宙を表現しているのだろう。

五本の指は思い思いの方向を指し示し、さながら無限の可能性を示唆する。

有と無が織り成す複雑な相貌は、そのまま世界の有り様を抽象化しているのだろう。

これら、個々ですでに完成されている概念をぶつけ合うという行為。

グーとパーという完全に対立する概念。その狭間に存在するチョキ。

この対置関係は、三すくみなどという陳腐な表現では到底捉えきれないことは明らかだ。

それは、真善美という至高を表現した、人類の精神活動そのものにも通ずる。

意思と偶然。それらの絶妙な加減によって、同じ結果は一度として起こることは無い。

そこには勝ち負けといった単純な結果を超えた、高潔な存在の意思をも感じることが出来る。

じゃんけん。

この恐ろしいまでに単純化された行為。

そこに込められた要素、一つ一つが完全無欠の完成度を誇る。

それらが組み合わさることにより、単純なはずの行為が爆発的にその選択肢を増やす。

この構図は、宇宙創生期のBigbangにすら類似するものではないだろうか。

じゃんけん。

この途轍もない行為を、我々は正当に評価してきただろうか?

もっと真摯に、かつ慎重に、我々は接していかなければならないのではないだろうか?

じゃんけん。

その存在は、いまだ多くの謎に包まれている。

…疲れてるのかなー。