漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

言葉の限界

分かんないですよ、実際のところは。

と、いきなり言い訳から入ってみる。

まあ、「曖昧沈考」ということで。

言葉の限界、というのは確実にある。

それは、表現の限界とか、意識の限界とか、そういうのとも違う。

もっと曖昧で、もっと解りづらい、もっと感覚的な限界。

それ以上進めないというか、ただ「限界」という壁がででーんと立っている感じ。

その先に広がっているのは、ただ広大な「無」。

無というのは、存在していない、ということではない。

かといって、存在している、ということでもない。

存在していると同時に存在していない。存在していないと同時に存在している。

かといって、それは絶え間なく変化している、というようなものでもない。

「それ」は確固として、不動のままにそこに「在る」。

けれどやっぱり、同時に「在らない」。

それは、次元が違う、でもない。

全く同じ瞬間。全く同じ位置。僅かなズレも許さない厳密さで。重なり合っている。

いや、重なってもいない。その表現は「正しくない」。

それが、一方向からの「限界」。

その場所に辿り着いた時点で、それは「一段落」。

そして、その次にやるべき事は、「反対」から同じ場所を目指すことかな、と。

例えば「言葉」から見ると、その先は「無」。

けれど、「言葉」から離れたとき、そこは「無」ではない。

視点の切り替え、とも違う、もっと根本的な部分で乗り換える。

その転換をどうすれば出来るのか。

そして、「何に」乗り換えるのか。

そういう風に乗り換えながら、多方面から同じ場所に近づく。

そうすることで、初めて「それ」が見えてくるのではないか、と。

"Artist"に羨望を覚えるのは、こういう瞬間なのです。

彼らには「それ」が見えている。感じている。

実際に「見えている」のは「本物」だけだとは思うけれど、見えている。

所詮はただの凡夫に過ぎないぼくに出来ること。

それは、ただ足掻き続け、求め続ける、ということだけなんだろうなぁ。