漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

JUGEM IT! from 弁論勝負の米国人、沈黙の日本人:NBonline(日経ビジネス オンライン)

面白い着眼点だな、と思います。

ただ、結論にちょっと無理があるかな。

弁論勝負の米国人、沈黙の日本人:NBonline(日経ビジネス オンライン)

日本人は、頭の中で漢字変換を行いながら、会話を行うと何かの本で読んだ覚えがあります。

音だけだと意味が取れないため、文脈を見ながら適時変換するのだそうです。

日本人にとって、会話というのは手間の掛かる作業なのです。

このような言語形態であればこそ、

世界のブログ書き込み言語のシェアで日本語は37%と英語の33%を凌駕しているという。
という結果が生まれるのだと思います。

書くという行為の方が、会話に比べ手間が掛からないのですね。

脳内処理の段階が、会話の一つ手前で終了できるわけです。

手で文字を書くという行為は、字の上手下手や漢字の書き取りがあります。

その為、出力までの手間は、会話とあまり変わらなかったと考えられます。

しかし、PCの出現によって、書くという行為に劇的な変化が起きます。

多分、世界中でもっとも利益を受けているのが、日本人なのではないでしょうか。

その流れは、日本人にとって、さらに有利な方向に進みます。

Internetという媒体を、もっとも効果的に使えるのは日本人だと思うのです。

少ない情報量で、短時間に効率的な意思伝達を行える表現手法の民族ですから。

ただ、この媒体の発明者が英語圏であるというのが、唯一残念な点でしょうか。

プログラム言語が下敷きとしているのは英語、というのが痛い。

もっとも、日本語を下敷きにするのは難しいだろうなぁ、とは思いますけれど。

でも多分、それは始め方と進め方の問題なのかもしれません。

うまく設計すれば、柔軟性と包容力のあるプログラム言語が生まれるのかも。

脱線しました。

つまり日本語というのは、もともとが書くことに特化している言語だと思うのです。

アルファベットという比較的簡単な文字体系を持ったこととが、口頭プレゼン訓練により多くの時間を費やすことを可能にし、この2つの文化要素は相補的に強化されてきたのではなかろうか。反対に日本では複雑な文字体系を持ったことと、文章論述を重視する文化要素が相補的、相互強化的に発展してきたと言えないだろうか。
という考察は、まさに的を射ているものだと思います。

つまり、目的としている対象や、使用形態がそもそも違うのですね。

書き言葉は、話し言葉としては不適切です。

会話において重要なのは、「省略」だと思います。

文章と会話は、そのrhythmが明らかに異なっています。

その為、読みやすい文章であることが、即ち喋りやすく聴きやすい喋り、とはなりません。

文章ではするっと認識できたとしても、口頭だとちんぷんかんぷん、というのはざらです。

そして、その逆もまた然りなのです。

ですから、blog等で書いている事を、そのまま喋るというのは無理があります。

ただ、意見を多く持っていることは確かだと思います。

私たち日本人にも旺盛な「俺にも言わせろ」衝動がある
というのもその通りでしょう。

であれば、書き言葉を話し言葉に置き換える技術を伸ばす事が重要、と思います。

ここは単純に能力の問題でしかないので、訓練することで確実に伸びます。

「Book Report」ではリポートを書き、その後クラスの生徒の前で口頭プレゼンをする。そのプレゼン内容がいくつもの評価項目で評点される。
という方法は、その訓練に非常に効果的なのでしょう。

日本語というのは、情緒表現が非常に豊かな言語であると思います。

一方、文章文化というのは、客観的視点や論理的思考を育む文化です。

日本語とは、この二つを同時に内包している言語形態ですから、その可能性は非常に大きいのです。

ぼくは、教育の拙さと文化の未成熟が、その可能性を阻害しているように感じています。

「国語」という教科は、ちょっとやり方を変えていくべきではないのかな、と。

そして、「発言」というものが持つ意味や責任というのを、社会として擁立していく。

この二つが適切に実行されれば、日本人の口下手は払拭されるような気がします。

「話す」という行為に必要なのは、技術ではないはずです。

必要なのは、伝えたいという情熱であり、知りたいという気持ちであるはず。

それらを表に出すことを躊躇わせないようにすることが重要なのだと思います。

だから、

さて、弁論か文章かの表現形態こそ違え、旺盛、活発なブログへの書き込みに見られる通り、私たち日本人にも旺盛な「俺にも言わせろ」衝動があるのだから、公論の場でもっと自己の主張を解き放ってみたらどうだろうか。ブログもいいが、匿名性に守られた世界でネチネチ書き込み合っているだけでは、ちょっと隠微だろう。
という締めの趣旨には同意です。

問題は、

公論の場のエチケットは守りながら、ブログに書き込むのと同じ調子で言葉にして言ってみるだけだ。
というのが出来るのかな、ということでしょうね。

まずは、

公論の場のエチケット
をきちんと教えるところから始めないといけないと思います。

ぼくもよくは分かりませんけど、現状を目にする限り、分かっているとは思えないです。

議論が仕事であるはずの方々でさえ、そうだったりしますから・・・。