漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

genocide

ものすごい怖い記事だな、と思いました。

メディアで憎悪を増幅してはいけない!:NBonline(日経ビジネス オンライン)

歴史上いつでもどこでも起きる、実に普遍的な現象であると痛感し始めています。
というのは、たぶん間違いない。

人間という生き物は、これほどまでに危うくて恐ろしい生物なのだと思います。

Orson Scott Cardの作品に、「死者の代弁者」というSF小説があります。

作品中に、「ノルド語による四つの異人性の等級」という概念が出てきます。

・ユートレニング ・・・ 同じ世界の異郷からきた同種族

・フラムリング ・・・ 違う世界から来た異種族

・ラマン ・・・ 人間ではあるが別の種として認識する

・ヴァーレルセ ・・・ 真の異種族(エイリアン)

この4つの等級は、非常に広範な用途に適用可能なのではないか、と思っています。

何よりも、日常生活における対人関係に驚くほどに当て嵌まる。

重要なのは、ヴァーレルセ以外の全ては、意思の疎通が可能であるはず、と言うことです。

こちらの価値観を伝えて理解してもらい、相手の価値観を識って理解することが出来る。

言葉は違えども、「同じもの」を見ることが可能なのです。

作品は、人間とペゲニーノという異なる種族間の対話を軸に展開していきます。

そして、人間はペゲニーノを「ラマン」として認めることで、共存関係を築くのです。

しかし、その共存関係は、続編の「ゼノサイド」で無惨に打ち砕かれてしまいます。

ここで起こる「ゼノサイド」の場面は、まさにこの記事にあるものと同じです。

人間の意識は、哀しいほどに脆弱です。

どんな状況でも「自分の意志」を保ち続けられる人は、極めて少数です。

環境が激変し、自らの命が常に危険に晒されているような状況なら尚更です。

そして、そのような状況は、いつ起こってもおかしくはないのだと思います。

そんな極限状況に置かれた時の人は、ただただ何かに縋り付きたいと願います。

自分が置かれている絶望的な状況から、目を背けることしか出来なくなります。

そんな状況において、誰かが扇動を起こした時、人は呆気ないほどに転落します。

「非常時だからやむを得ない」といった理由のない理由で、平時から存在していた社会対立に「最終的解決」をもたらそうと人為的に導入された大量殺人
は、本当に簡単に実現されてしまうのです。

すべては、ぼくらが対象を「ヴァーレルセ」と認識してしまうことが原因だと思います。

「それ」は仲間ではない。そもそも「人間」ですらない。

そんな価値転換が、頭の中で一気に起こってしまうのだと思うのです。

この転換が起こると、「良心」や「倫理」という枷は、あっという間に弾け飛びます。

そうなった時、まるで邪魔な「害虫」を潰すかのように、淡々と「人間」を殺せてしまう。

これは、人間の脳が持つ「言葉」の魔力も関係している作用だと思います。

感覚的な質感を、言葉による客観が覆い尽くしてしまうのです。

だからこそ、

「非常時」が終結してから振り返ると、取り返しのつかないことをしていたことに初めて気がつく。
のです。

そしてその時には、全てが遅すぎる。

そこに陥らないためには、日頃からの訓練しか無いと思います。

「他人」からの情報を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考える癖を付ける。

生の情報をそのまま呑み込むのではなく、自分というfilterで必ず濾過する。

どんな物事でも、その本質的な部分というのは似通っています。

そういった「本質的な部分」を直感的に感じられるような感受性。

それを鍛えることは、世界の多様性へと繋がっていきます。

自らを取り巻く環境が、自分とは異質であればあるほど、価値観は鍛えられます。

相互理解のために必要なものは何か。どうすれば理解へと繋がっていくのか。

その為の立ち振る舞いは、「他人」との折衝を繰り返すことでしか身に付きません。

自分にとって、本当に大切なものはなんなのか。

それをしっかりと定義するところから、全ては始まるのではないか、と思います。

そして「唯我論」の罠を注意深く回避し、少しずつ手探りで進むしかないのかな、と思います。

しかしその為には、「手に触れる」という情報が不可欠なのです。

だから何よりも怖いのは、このような「事実」をmajorが流さないこと、です。

この恐ろしさは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。

「マスコミ」という存在の恐ろしさを、改めて見せつけられた気がしました。

情報というものが、いかに大切なのか。

それを、もう一度、しっかりと認識しなくてはならない、と思います。