漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

何を求めているのか?

とても共感出来る記事だと思いました。

ネット規制よりもユーザーによる制裁を - 池田信夫 blog

Netizenたちは、これまであまりにもサボり過ぎだったんじゃないかと思います。

それは、自分も含めての感想です。

一方で、こういう意見も見受けられました。

シロクマ日報 > 「死ねばいいのに」 : ITmedia オルタナティブ・ブログ

確かに、それは「言葉狩り」に繋がる危険性を孕んでいるとは思います。

けれど、「死ねばいいのに」という強烈な言葉が、気軽に使われる社会は健全なのでしょうか。

「ただのジョークだよ」なんていう後付で許されるような言葉では無いと思います。

その部分の感受性が鈍っていることは、他人への共感力が鈍っているのと同義です。

それが使われている背景を、すべての人が理解済みだと思うのは、ただの驕りです。

電網界に必要なのは、誹謗中傷をthrough出来る"Literacy"だという意見も見受けられます。

しかし、それは加害者が言って良い台詞ではありません。

ましてや第三者であるただの傍観者が、口にして良いはずはありません。

それは、死者を鞭打つ行為に他ならないとは思わないのでしょうか。

なお、小林氏の記事がこれらを肯定している、というのは明らかな誤読です。

ただ、書き方から、「死ねばいいのに」という発言を軽視しているようには思えました。

こうやったら抜けられる、だから意味がない、という言葉遊びは軽薄だと思います。

言葉そのものの危険性と、それが気軽に使われている状況を問題視すべきだと思いました。

そして、それを受けて展開される後段において、教育が有効な手段として取りあげられています。

しかし、教育で何とかなるような問題でもないと思います。

「そんな言葉を使うのは駄目です」なんて言ったところで、そういう人たちは聞く耳を持ちません。

それは、いつまで経っても犯罪が無くならない現実を見れば一目瞭然でしょう。

「教育」というのは、全体的な平均値を底上げするためには有効です。

しかし、上がるのはあくまでも「平均値」であり、そこからこぼれ落ちる一定数は常に存在します。

そして、彼らによって壊されてしまうような社会が、現に出現してきている、と言うことなのです。

そういう社会は壊れても仕方ない、なんて価値観は、ぼくには到底受け容れられない。

しかし、教育そのものが無意味だと言うつもりはありません。

教育だけでは到底追いつかない、という主張です。

そして、悠長に教育しているような状況なのか、という危機感です。

ネットの出始めならば、教育によって適切な成長を促す、という選択もあり得ました。

その結果が、冒頭で書いた「Netizenはサボりすぎた」という感想です。

多種多様な価値観を持つ「人間」が集まっている以上、絶対の正義というのは存在しません。

しかし、その場を提供している「支配者」は、その「正義」を行使することが出来ます。

これを突き詰めた社会は、自然にclusteringした社会構造に向かうでしょう。

生ぬるい空気感が心地良いと思う集団は、そういう場所に集うでしょう。

殺伐とした空気感で歯に衣着せぬ言い合いを求める集団は、そういう場所に集うでしょう。

そして、それらの間には、堅牢な障壁が立ち塞がるべきだと思います。

誰もが立ち寄れる「広場」には、そういう要素を遮断する仕組みが必要だと思います。

そして、そういう要素が欲しい人は、そういう場に移ってくれれば良いだけ。

今でもそうなっている。見たくなければ見なきゃ良い。

そんな意見もあちこちで散見されます。

しかし、それも間違いです。見たくもないものを見せられる事も多いのが現状です。

不意打ちのように突き付けられる状況は、幾つも考えられると思います。

検索結果で当たってしまったり、関係ない場所にコピペされていたり。

或いは、評判が気になって見てしまう、という状況も良くあることだと思います。

殺伐とした環境を望んで身を投じたあとに、それを非難するのは確かに筋違いです。

しかし、ネットという環境そのものがそういうものであると定義してしまって良いのでしょうか。

ぼくは、ネットはそんな場所ではない、と思いたいのです。

すべてがflatになっている社会は、たった一つの極めて単純にして強力な法則に従います。

それがつまり、「弱肉強食」です。やったもん勝ち、という価値観です。

そこは、暴言を躊躇無く吐き、徹底的に相手を叩きのめすことが出来るものが勝者になります。

その原始的な社会からの脱却を目指すことで、人類は進化してきたのではないでしょうか。

他人を傷つけるような存在がふらふらと出歩くような社会は、根底から破綻しています。

現実社会に置き換えてみれば、それは容易に理解出来るはずだと思うのですけれど。

それぞれの個人に期待を持てない以上、環境そのものを変えていくしか無いと思います。

そして、それを行うべきは、その場を楽しんでいる利用者が主体とならなくてはいけない。

主催者が重い腰を上げた時、その鉄槌は極めて重大で深刻な影響を与えることになるでしょう。

そしてその影響は、利用者が望んでいる変化から、かけ離れることが殆どです。

なぜなら、主催者にとって都合の良い環境を、そこには創り上げるはずだから。

だから利用者は、主催者が動く前に、その場を適切に収める努力を行うべきなのです。

自由とは、自律の上にしか成り立ちません。

奔放に振る舞うことが自由の意味だと思ったら大間違いです。

こんな意見を言っていると、なに綺麗事言ってんだと罵られるかもしれません。

青臭いこと言ってんじゃないよと嘲られるかもしれません。

けど、折角blogを持っているので、自分の意見も表明しておく事にしました。

それが気軽に出来る今の状況というのは、本当に素晴らしいことなのです。

こういう状況を、自分たちの手で潰してしまうような愚行だけは、避けたい。

ただ、最後に一言だけ書いておくと、はてなも可哀想だとは思います。

素敵で革新的なserviceを、幾つも世に生み出してきた功績は称えたい。