漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

必要なのは選択肢

だいたい同意なのです。

古い価値観を脱ぎ捨てる時 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

けど、現在起こっているのは、変化だけではないとも思います。

社会全体が変質するのではなく、幾つもの触手が伸びていく感じ。

中核にあるものは変わらず、その周縁が変わっていくような感じ。

日本が失敗した最大要因は、雛形至上主義、或いは前例至上主義にあると思います。

経験則を必要以上に重視した結果、ガチガチに凝り固まってしまって身動きが取れない。

そういう意味で、

すっかり古く錆び付いてしまった様々な社会制度を変革していく中核になって欲しいと思う。
というのは完全に同意。

もちろん、自分自身もそうならなきゃいけない、って自戒も含めて。

しかし、それは工業化とはまた別次元の話なんじゃないか、とも思います。

工業化という仕組みそのものは、それほど責められるべきものでもありません。

この仕組みは、かなり練り上げられ、洗練されています。

それだけではなく、時代の流れに応じて、適切な形に変遷してきている。

製造業という職種が消えることがない以上、この仕組みも消えることは無いでしょう。

問題は、一つのやり方に過ぎなかったはずの工業化を情報産業に適用したことだと思います。

それは製造業という大きな枠の中でこそ活きる仕組みなのに、それを見誤った。

情報産業という職種は新しい分類に入るのだから、仕組みそのものも新しくあるべきだった。

けれど、過去の成功体験という強烈な目眩ましが、冷静な判断力を奪ったのだと思います。

確かに、情報と情報をやり取りする手段を製造する、という意味では製造業ではある。

けれど、そこで造られるものは、これまで造られてきたものとは明らかに違う。

その事に気付いていながら、見て見ぬふりをして進めてしまった。

そして、この掛け違いは、負の影響力を持って製造業へと還ります。

それまでの柔軟性を外部素子の存在が阻害する形になり、変化を邪魔するようになった。

工業化の基本にあるのは、単純化による効率化だと思います。

似通った作業を規格化し、流れ作業として自動化する。

工程ごとに明確な役割分担を定め、個々の工程の中で閉じてしまう。

そのようにして製品を造る工程を簡略化し、管理の手間を省いていく。

単純作業の反復となる工程は、その作業専用の機器を開発し、適用する。

この一連の仕組みは、そのまま情報産業に適用することが可能です。

だからこそ、情報産業は製造業の仕組みを自らのものとして取り入れた。

しかし、これまでの製造業と情報産業では、明らかに異なる要素があります。

言うまでもなく、それは「原材料」という概念です。

この違いは、そのまま仕組みそのものが重視する箇所の違いへと結びつきます。

その齟齬に、初期の情報産業の職種の殆どは、気付くことが出来なかった。

こういった手法に置いて、定期的な仕組みの見直しというのは必須です。

時代の流れによって、工程というのは大きく変わるのが当たり前だから。

しかし、その変わる切っ掛けというのは、時代の変化であることが重要です。

製造業にとって、時代とは原材料と技術に集約されると思います。

そこで使われている仕組みは、殆どがこの二つに左右されています。

ここで、原材料は有形、技術は無形です。ここで、絶妙な平衡が保たれている。いた。

ところが、情報産業に於いては、この「原材料」というのが重くない。

その為、技術という無形側に、大きく依存する構造になっているわけです。

となると、天秤は常に一方向に傾きっぱなしという異常な状況になる。

そしてこの歪みが、構造全体の歪みを引き起こします。

技術偏重という構図は、新しい技術だけに価値があるという構図へと繋がります。

それまでの製造業は、むしろ新技術というのは危険視される傾向だったかと思います。

安定した生産を確保出来ることにこそ、価値をおいた構造であったはず。

なぜなら、原材料を無駄に消費することは許されなかったから。

しかし、情報産業からの影響が還ってきます。

その結果、一つの技術を成熟させてから次に移る、という連関が崩れてしまった。

具体的にいえば、見た目や細部だけを変えただけの「新要素」が蔓延することになった。

その結果、似たような製品の蔓延が起こります。

消費者は違いを見分けることが出来ず、唯一の指標だけを頼るようになります。

その唯一の指標というのが価格です。

似たようなものなら、安い方を買うというのは当然のことです。

しかし、これまでの安さと現在の安さは、その性質が確実に違います。

大量生産の仕組みを確立し、原材料を安価に、かつ大量に確保した上で可能になる安さ。

これが、これまで行われてきた安さの背景です。

ところが現在は、この前提が大幅に崩れているわけです。

しかし、値段競争が前提である以上、値段は下げなくてはならない。

もっとも簡単に、かつ確実に原価を下げられる原価は何か。それは人件費です。

そしてこの構図が、同じ経路を通って情報産業へと回ります。

情報産業に於いて、唯一と言っても過言ではない原材料は、技術を生み出す人です。

ですから、設備投資として向かうのは、人的資源の拡充であるべきです。

その産業にとって、もっとも重要視すべき部分はどこにあるのか、ということなのです。

製造業は、大きな財布をみんなで分け合って使っている、という構図。

情報産業は、小さな財布をみんなが持ちあって大きな買い物をする、という構図。

いちばん根本となるべき部分からして、大きく違っているのです。

製造業は、新しい価値観ではなく、原点に立ち返るべきだと思います。

そして情報産業などの新基軸は、製造業と袂を分かって新しい構造に移るべきです。

新しい構造というのは、その職種の性質によってdrasticに変わるべき類のものなのです。

日本全体が、戦後の復興を牽引した製造業の構図だけが正解と思いこんでいるのが病根ではないかと。

全てが平坦な社会というのは、どう見ても異常です。

場所によって凸凹のある社会こそ、活力のある社会だと思います。

その凹凸を許容出来る社会構造の整備が、急務なのではないかと思います。

個々の業種によって、最適となるものは何か。

古きものを馬鹿にするのでもなく、新しきものを軽視するのでもなく。

全てを等価値な選択肢として並べ、その中から適切なものを選び取る。

これが重要になってくるのではないかな、とぼくは考えています。