漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

"Communication"の断絶について

喋る。

答える。

笑う。泣く。

叫ぶ。黙る。

人間というのは、実に多くの手段を持っている。

"Communication"とはなんだろう。

辞書を引いてみる。

なるほど。伝達し合うこと。

では、「伝達」とはなんだろう?

「伝える」とはなんだろう?

感情を表現する。言葉。絵画。音楽。身振り。などなど。

なぜそれは、表に現さなければならないのか?

感情を伝える理由は何か?

言葉を知らぬ幼子は、不満を表明するのに泣き叫ぶ。

なぜ表明するのか?

この疑問は、容易に推測することが可能かもしれない。

不満を解消するように求めている?

なぜ不満を表明すると、不満の原因が解消されるのか?

彼らは、表明すれば不満が解消すると知っているのだろうか?

周りに誰もいない状況でも、彼らは泣く。

これは、「周りに誰もいない」ことを認識出来ないからなのだろうか?

彼らは、本当に伝えようとしているのだろうか?

幼子のそれは、一方にしか向かわないCommunicationである。

我から外へ。我はこう思っている。我はこう感じている。それを「外側」に放射するのみ。

そこに、相手の理解という要素は存在していない。

無指向性のantennaの如く、四方八方に「情報」をばらまき散らす。

これが、"Communication"の原型であることは間違いないだろう。

幼子は言葉を識り、表現する手段を見つける。これを一般的に成長という。

なぜ、それらは必要なのだろうか?

表現手段を駆使することは、antennaに指向性を持たせることに似ている。

範囲を狭め、より「強力」に、自らの思いを、感情を、飛ばす。

なぜ、そんな事をする必要があるのだろうか?

無指向に四方八方に飛ばした方が、自分という存在を知らしめる手段として有効なのではないか?

確かに、それは知らしめる手段としては有効。

"Communication"の形として、ひょっとしたら、これが正しい形なのかもしれない。

だけど、人間という生物の性能では、この方式は扱いきれなかった。たぶん。

だから、それはあくまでも、一方向のCommunicationの位置に留まるしかなかった。

ここで、無指向性であっても、双方向のCommunicationが成り立てば、人は変わるのかも。

けど、現状に於いても、それは未だ実現していない。将来は、どうだろう?

閑話休題

双方向のCommunicationを、人は求める。

相手に、自分という存在を認識して貰いたい、という欲求。

それは、「相手が自分という存在を認識した」ことを知ることで満たされる。

その為に、Communicationは双方向でなければならない。

だからこそ、人間が掌握出来る範囲にまで、指向性を狭める。

そうすることで、他者へと自分という存在を認識させることが、容易になる。

しかし人間の大部分は、「認識」だけでは満足しない。「理解」を求める。

さて、自分以外の生命体が、何を考えているのか。どう感じているのか。

それを知ることは、今のところ出来ない。不可能。

けれど推察することは、たぶん出来る。出来ていることになっている。

相手の状況に自分が置かれていると想像すること。それが推察。

しかし、その行為には、当然のように限界がある。

他人の体験を、完全に追体験することは出来ない。今はまだ。

まったく同じ状況に置かれたとしても、完全な追体験には至らない。

前提となる条件を、まるっきり同じ状況に置くことは出来ない。

身体組成、感受性、価値観。我と彼は、別の生物であるのだから。

これが、いわゆる他我問題

自分と相手が、まったく別の生物である、という現実。

それを知った瞬間から、人は人であることを始めるのかもしれない。

まったく別の生物に、自分という存在を知って貰いたいという渇望を抱く。

なぜ、そんな渇望を抱くのか?知って貰うことにどんな意味があるのか?

その根底にあるのは、言葉も識らぬ幼子のそれと同じ欲求なのかもしれない。

生存本能という、なんともパッとしない、使い古された言葉。

自分という存在が、ここにいると言うことを認識して貰うこと。

その事が、自分という存在を生かす可能性を増やすことに繋がるのかもしれない。

けれど、それは自覚の上で行っていることなのだろうか?

本能であるのならば、有意識下での認識は無いのではないか?

本能が、その行為に快楽をもたらしているのかもしれない。

その結果、快楽を求めた結果として、様々な表現を行っているのかもしれない。

なんにせよ、大部分の人間には、自分という存在を他者に知って貰いたい、という欲求がある。

しかし、「相手が自分という存在を理解した」という確証を得ることは出来ない。

ここに、"Communication"の断絶が存在する。

「届かない」ことが断絶なのではない。

「届いていることが分からない」ことが断絶なのだと思う。

この断絶を埋めるためにはどうすればいいか。

「届いた」ものを信じるしかないんじゃないか、と思っている。

それは、相手から届いたものを、素直に受け容れる、ということ。

相手の心情を、本当に理解することは出来ない。

であるのなら、相手から届いたものを、ありのままに受け容れるしかない。

そして、他者の表現を受け取ったら、それが届いたことを、素直に表明する。

他者が、自分が発した表明を、素直に受け容れれば、双方向のCommunicationは成立する。

そこには、擬似的な理解が、見事に成立している。

重要なのは、本当の理解なのではなく、connectionの成立なのではないだろうか?

お互いを本当に理解することが不可能であるのなら、疑似と本物の見分けは付くだろうか?

これが、相互信頼、という形。

間に立ちはだかる断絶を、結び繋ぐための手段。

その効率的な道具として発明されたものが、言葉という魔法に他ならない。

嘘というのは、この魔法を悪用した害悪。

正直に、ありのままに言葉を使うことが出来れば、世界はもっと素晴らしくなるのにね。

正直者が馬鹿を見る、という価値観が普遍化するのを許してはいけない、と思います。