漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

なぜ、コピペは良くないのか?

ITmediaで小寺氏が書かれている下記の記事を読んで。

小寺信良の現象試考:自分の意志とコピペの間にそびえ立つ壁 (1/3) - ITmedia D LifeStyle

前々から思うところがあったので、ちょっと書いてみる。

まず前提となる最大の疑問。

そもそも、コピペでreport書いて何が悪いの?

と始めると、囂々たる非難に晒されそうな気がします。

けど、実際問題として、ネット以前にもコピペなんて普通にあったと思うのです。

学校の宿題を写させてもらう、というのはよくある風景だったはず。

とはいえ、昔からあった、というのが免罪符になるはずもないです。

ただ、昔からあったよね、という事実確認。

で、次。

例えば試験で、教科書などの資料持ち込み可、ってあったと思います。

ひょっとして、高校とかではないのかな。高専では一部でありました。

この時、問題に対する答えを、教科書から「引用」するわけです。

さて、これもコピペですよね。これは悪いことでしょうか?

小寺氏は下記のように書いておられます。

学校のリポートというのは、本人が理解しているかどうかをアピールするためのものだから、理解の部分をすっ飛ばしてどこかから拝借したもので体裁だけ整えるというのは、サボリやズルと言われても仕方がないことだろう。そもそも学校側が学生にリポートを出させるのは、世の中こうやって自己学習して行くもの、という滑走路を走らせるためのものなわけだから、自分で走らないヤツがしかられるのは、まあ仕方がないことである。
なるほど、確かにその通りだと思います。

しかし、逆の視点から捉えると『「全文コピペ」で完了するような課題』でしかない、という捉え方も出来ます。

或いは、コピペ元で書かれている文脈を理解出来、課題の回答を理解している、という解釈も出来ます。

ここで重要になるのは、「report」で何を評価しているのか?という点になります。

例えば、歴史的な認識を問うているのであれば、コピペであっても何ら問題は無いはずです。

これは、暗記物の試験と構図的に似ていると思います。

年号や人名を覚えさせて、その覚えた事柄を書かせているわけです。

しかし、その答えが記載されている資料を見ることは禁じられています。

その事が意味している事は何か?考えるまでもないですね。

問題として問うている事は、試験の本筋ではないわけです。記憶力を試しているわけです。

ですから、別に年号だとか人名だとかが問題である必要性はありません。

よくある、「この絵を30秒見て記憶して下さい」で良いのです。

では、コピペが問題になるreportは何を試しているのか。

暗記物が記憶力を試しているように、reportでは文章力を試しているわけです。

となれば、コピペで終わらせられるような問題を作った方が悪い。

文章力を見たいのであれば、一般的な事柄を問題として据えるのはバカげた話です。

もっと身近な、その書き手でなければ書けないことを題材に据えるべきなのです。

或いは出題時に、出題の意図を、回答者へ明確に伝える努力をする。

そうすれば、出題者の意図を正しく理解出来る回答者なら、コピペなんてしないでしょう。

また、採点の際にも、出題意図に沿っているか明確に判断することが出来ます。

それをしないで、ただお題目として「コピペは駄目!」と言っても、説得力はありません。

文章を書くという行為は「何を書くのか」という目的が最も重要だと思います。

文法的な技巧は、本来の文意には全くと言っていいほど影響しません。

どんな悪文だとしても、そこで書かれている意味さえ伝われば、目的は達成です。

しかし、水準以上の技巧がない文章は、そもそも読んでもらえない可能性が高まります。

読んでくれさえすれば、そこに書かれている事は伝わるのに、という悔しさ。

それを回避するための手段が、文法的な技巧です。

このことは、文章以外の色々な分野においても同じような構図で立ち現れてきます。

要は、「見た目と中身」という極めて単純な構図なわけです。

この二つは対立するものとして描かれたりもしますが、実態は相の関係です。

見た目が悪いと第一印象が悪くなるので、中身がよほど良くなければ挽回は難しいです。

また、見た目だけが立派だと、中身を見たときの落差が大きいため、やはり評価は下がります。

見た目も中身も同じような水準に保つことが、適切な評価を受けることに繋がります。

ここまで書いてきた事を踏まえて、ではコピペは何が悪いのか?を改めて問います。

コピペそのものが悪いわけではないのです。

むしろ、コピペというのは極めて有効な手段の一つですらあるのです。

だから逆にコピペ部分をどんどん細かく刻んでいって、沢山の論文の中から少しずつ少しずつ切り取って極限まで細かくいったら、それはもうほとんどオリジナルのリポートと呼べるのではないか。もちろんトータルで読んだときにつじつまが合っていなければならないが、それはもう編集テクニックの問題である。

 そしてそんなことが可能なぐらいその素材を深く理解しているなら、もう自分でも文章を書いた方が早いぐらいに成長しているとも言える。要はキーボードを自分でタイプしたか、和文タイプのように活字を拾って埋めていったかという、入力手法の違いぐらいしかないことになる。

というのは、重要な指摘です。

文化というのは、突き詰めればコピペ、模倣の集大成に過ぎません。

しかし、その模倣の組み合わせ方にこそ、originalityの生まれる余地があります。

模倣を盲目的に禁止してしまうことは、文化そのものを禁止することと同義だと思います。

本当に真っ新な場所から、何かを生み出した事例なんて殆どありません。

その事を理解すれば、コピペを非難することなんて出来ないはずなのです。

ただ一点、憂うべき所があるとすれば、この箇所で言われている事でしょう。

編集というのは素材がないと何もできないから、いろんな素材があることは歓迎だが、ただ選ぶだけということに対して大きな抵抗を感じるのである。従って我々のような古い世代の編集者がこれらの素材を使う場合、原型を留めないぐらいに手を加えて元ネタが見破られないようにするのが普通である。しかし最近はテレビの番組の中でも、コーナータイトルにArtBeatsの素材がそのまんま出てきたりして、げんなりすることも多くなった。
この「抵抗」が無くなってしまっている現状は憂うべき事です。

しかしこの原因は、コピペには無いと思います。

もっと違った、例えば価値基準の確立過程だとか、自分という商品の認識だとか、その辺。

現状の問題は、コピペ出来ない課題を作れない出題者、にこそあると思います。

「何を評価したいのか?」を理解出来ずに課題を作っているのが問題だと思うのです。

習熟度を評価したいのであれば、コピペでも何ら問題はないはずです。

文章力(表現力)を評価したいのであれば、そういう問題を作る必要があります。

また、評価基準を明確に示さなければ、回答者は評価の意味が理解出来ません。

理解出来なければ、結果からのfeed backは期待出来ないと思います。

コピペ可能な領域が増えるというのは、利便性が発達しているという事です。

これを否定することは、現代社会そのものを否定することと同義だとすら思います。

著作権とかの問題も、ここと同じ位置にある問題なのではないかと思うわけです。

財産権としての著作権を論じたいのであれば、また話は変わってくるのですけれど。