漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

「あたし彼女」読感

第3回日本ケータイ小説大賞受賞作、「あたし彼女」。

あちこちで話題になっているようなので読んでみました。で、その雑感など。

まず総論。

対象の名に相応しい、立派な「作品」じゃないか、と思いました。

まあ、正直なところ、「ケータイ小説」というものを読んだのは、これが初めてです。

なので比較対象となるのは、ぼくがこれまでに読んできた、一般的な娯楽小説です。

それらと比べても、なかなか凄い作品なんじゃないか、と思った次第です。

で、ここから各論。

まあ、題材となっている部分は、所謂「ケータイ小説」路線を継続したもの。

ここに関しては、既に論じ尽くされてるように感じるので割愛です。

正直、この題材を扱う小説は、思春期を過ぎてしまうと読むに耐えんな-、とは思います。

これは個人的な感想なので、別にそういうのを否定してるわけじゃないです、と但し書き。

なので、「中身」或いは「物語」という部分だけで言えば、まあそれほどでもないと思います。

実際、始めの数頁で読むのを止めてしまう人が多い原因の大部分はここでしょう。

独特の世界観というか、はっきり言ってしまえば、青臭い未熟さから来る露悪主義に嫌気が差す感じ。

まあ、ぼくで言えば恐怖小説が読めないとか、そういうのと一緒なんだと思います。

こういう題材という時点で、生理的に受け付けない。

それは個人の嗜好なので、それ以上どうしようもない部分です。

けど、評価を下すのであれば、それははっきり言って些末な部分です。

中身どうこう、という評価は、誤解を覚悟で言うと「PTA的評価」ってことです。

凶悪犯罪が出ると、video gameや漫画なんかが槍玉に挙げられるあれですね。

Netizenたちは、そういうのを蛇蝎の如く嫌ってたはず・・・、ん?というのは、まあ置いときます。

では、「文芸」あるいは「芸術」としての「作品」としての評価として、何を見るか。

それは、まず第一に「新しさ」だと思います。で、その次に「技巧」が来るのかな。

まず、これまで発表されてきた数々の作品と比べ、明らかに新しいと思われる領域があるのか。

この作品には、それがあるんじゃないかと通読して思いました。

それは何か。

一見してすぐに目に付いたのは、その独特の文体でした。

行間空けとか、細切れのsentenceとか。

で、読んでるうちにさらに気付いたのが、すべて一人称形式で綴られているという点。

いわゆる「地の文」というのが殆どありません。

すべて、語り手の独白のみで物語が進行していきます。

また、全体的な構成の巧さと、文章としてのリズム感が良い点にも注目できると思います。

さらに、sentenceを細切れにしていくことで、視線の動きが極めて小さく押さえられています。

これらの要素が組み合わさった結果、読み手が「文章」を追う必要のない表現に辿り着いています。

それぞれの文章表現に注目するのではなく、物語そのものの進行を流れるように辿っていける。

簡単に言えば、極めて自然に「流し読み」することが可能になっているわけです。

これは、「文芸」という視点から捉えた場合は、もうお話しにならないと思います。

「文芸」のキモとなるのは、繊細な文章表現や、洗練された言葉遣いです。

また、それらの「技巧」によって紡がれる物語には、一種の形式美が求められます。

そのような評価軸にこの作品を置くと、もうケチョンケチョンに叩き潰されて終了でしょう。

しかし、今回の評価軸となるのは、「ケータイ小説」という場です。

そのような前提で、改めてこの作品を捉え直してみれば、風景はかなり変わるのではないでしょうか。

この作品が卓越しているのは、「メディア」と「読者層」を正確に捉えている点だと思います。

その上で、それらの条件において、最大の効果を示す手法を編み出している、ということ。

繰り返しますが、正直、ケータイ小説をちゃんと読んだのは、本作が初めてです。

なので、このような手法というのは、既にケータイ小説の文化圏では、確立した形式なのかもしれません。

でも、初めてこの手法に触れて、これは新しいなあ、と素直に感じました。

これから「ケータイ小説」が狭い世界に限定されない為には、題材の多様さが必要になるでしょうね。

具体的に言えば、「トレンディドラマからの脱却」かな。

あとは、書き手側が成熟することでしょうね。こっちは、まだ数年はかかるだろうな。