漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

無縁社会

先日、NHKで放送されていた無縁社会

その後、雑誌で取り上げられたり、後追いの番組が放送されたりと波紋を呼んでいるようです。

このentryも、追跡!AtoZの後追いを見ながら書いてます。

個人的に思うのは、これは「核家族」の頃と同じ構造なのかな、ということ。

時代の指向が「個」へと向かい続けた結果として、むしろ当然だと思います。

そして、この結果は、必ずしも悪いものとは限らないのではないかと思います。

もちろん、この現象そのものを捉えれば、決して良いものだとは言えません。

「繋がり」が消失していくということは、つまり社会が分断されるということです。

その事が指し示す未来が、かなり暗いものであろうことは想像に難くありません。

これをrecoverする手段は、recoverの種類別に幾つかあると思います。

単に「無縁死」を防ぐだけなら、それほど難しくはないでしょう。

壁となるのは、privacyをいかに確保するかのtrade-offくらいでしょうか。

しかし本当に深刻なのは、「無縁死」に至るprocessの方であることは言うまでもないでしょう。

このprocessの背景には、様々な要因が複雑に絡み合っています。

例えば、コミュニケーションの断絶による「地域社会」という構造の消失。

Life-styleの変化によって、個人が持つ価値観の中身が大きく入れ替わっています。

また、日本という社会全体が裕福になっているという背景もあります。

実感として感じにくいかもしれませんが、日本社会は間違いなく裕福です。

その結果として、個々人が個々人のままで社会生活を送ることが可能になっています。

社会が貧祖である場合、人は群れをなして互助していなければ生活もままならないはずです。

さらに、極めて強固で安定した、「自動的な」社会構造という要素もあります。

個々の要素が何かを担うのではなく、全体が全体の歯車として全体を回しています。

これを別の側面で見れば、個々が個々である必要がない、ということでもあります。

存在としての分担ではなく、役割としての分担です。

一見すると、手間の懸からない良くできたsystemに見えます。

しかし、ここから抜け落ちているのが「動力」です。

今は、systemを組み上げた際に掛けられた駆動の慣性によって回り続けているだけです。

時が経つにつれて慣性は弱まっていき、近い将来、systemは停止するでしょう。

こうして要素を並べていくと、「良いことだ」とは到底言えないと思います。

だからこそ、番組でも雑誌でも、極めて悲観的なtoneで取り上げています。

そして、要素だけを取り上げれば、こういう結論になることは当然です。

しかし、それでもなお、この現象は決して悪いことではないと、ぼくは思います。

何故ならこの現象は、「自由」に至る道程にあるものの一つだからです。

自由ということは、個々が個々として生きていくということです。

本当の意味で自由な社会が成立することは、素晴らしく素敵な事のはずです。

「自己責任」という言葉が悪いimageを備えるようになってしばらく経ちます。

しかし、「自己責任」という概念そのものは、決して悪いものではありません。

自分が自分の意志でもって選択し、その結果をきちんと受け容れるということ。

それは、間違いなく正しいことであり、そうあるべきものだとぼくは思います。

問題なのは、選択に至るprocessと、失敗してしまった場合のrecoverです。

全てを一緒くたにして論じるから、結論がおかしな事になってしまうのだと思います。

これは、「自己責任」以外の様々な事柄でも、ほぼ同じような構造になっています。

まあ、この件は余談になるので深くは触れません。

話を戻すと、戦後の日本社会は「自由な社会」を成立させるために土台を作ってきたと言えます。

その結果、様々なしがらみが社会構造から消え、個々が個々として生きることが可能になりました。

しかし、自己が社会から切り離されたとき、「自分」が見えなくなったのだと思います。

「自分」を為しているものは何か?「社会」とは何か?

それらを正確に捉えることが重要です。

「自分」と「社会」を対比させたとき、「自分」に属するものは何か?

この疑問に正確に答えられるのであれば、個々は個々として成立するでしょう。

無縁社会」という構造は、近い将来、呆気なく消失するでしょう。

何故なら、「社会」は自己保存の本能から、この問題を速やかに解消する方向に動くからです。

しかしその時、これまで作ってきた「自由へと至るための土台」が破壊される可能性が高いです。

なぜ破壊されてしまうのかといえば、社会にとってはそれが最も安易な方法だからです。

それを防ぐ方法は、個々の意識を高めていくという行為以外にありません。

社会とは、個々が寄り集まって為しているものに他ならないのですから。

重要なのは、「こうあって欲しい!」という強い意志を持って、その事を表明することです。

社会を動かすのは、個々人が表明する意志そのもの以外には無いのです。

目の前の現象だけを捉えて悲観することは、自ら可能性を潰してしまう結果へと繋がります。

その現象に至ったprocessやその現象の背景、そして、その現象が向かうであろう将来。

それらを統合的に捉えて、何がどうなってどうすれば望むべき方向へと向かわせることが出来るのか。

そして、その為に自分が出来る事はどのようなことなのか。

別に難しいことや高尚なことを言いたいわけではありません。

何がしたいの?そしてその為に、まずは何をするの?

つまり、そういうことです。

縁というものは、簡単に切れるものではないし、切ろうと思って切れるものでもありません。

「縁」というものの本質は何なのか、ということだと思います。