「老い」の読書
ちょっと長文で書きたい内容だったので、久しぶりにblogで。
とは言っても、年末に纏め記事を書いたから、そんなに久々でもないか。
切っ掛けは、さっき読んだ「本の雑誌 2月号 はんぺん雪踏み号」。
特集の「百歳までの新読書術!」を読んで、うーむと考え込んでしまった。
たぶん、読書好きな人に取って、一様に衝撃を与えるであろう文章が、たくさん書かれていた。
その中でも、特にガツンと来た部分を、ちょっと引用してみる。
読書にそくしていうなら、五十代の終わりから六十代はじめにかけて、読書好きの人間のおおくは、年をとったらじぶんの性にあった本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然とそう考えている。以前の私が実にそうだった。しかし六十五歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち七十歳、そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめて、本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうからバンバン押し寄せてくる。あきれるほどの迫力である。のんびりだって?じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、いままで考えたこともなかったろう、と六十歳の私をせせら笑いたくなるくらい。
(老人読書はけっこう過激なのだ / 津野海太郎)
どうですか。がんっと来ませんか。ぼくは来た。かなり。
歳を取ることというのは、頭では分かっているつもりでも、なかなか実感をもてない。気が付けば、もう30歳はとっくに超えて、もはや「アラサー」という言葉の枠外に出てしまいそうなのにも関わらず、まだ実感が湧いてなかったりもする(というのは流石にどうなんだ、と思わないでもない)。
かつて20歳だった自分にとって、30歳という年齢は想像も付かないような年齢だった、という記憶は、けっこう鮮明に残っていて、そのイメージと自分の年齢が、どうしてもマッチしない。だって、自分がこの仕事をやり始めた時の先輩と、いまの自分が同じ年齢だなんて、やっぱりちょっと、しっくりこないよなあ。
けれど、20歳の頃、もしくはさらに前、10代の頃の自分と比べて、いまの自分は変わってはいないのか?と自問してみれば、うん、変わったよね、と納得してしまうことも多々ある。体力の衰えなんかは、けっこう顕著だったりする。
そして、じっくり見つめ直してみると、けっこう大きく変わったものがあったりする。それは、「嗜好」。様々な「好み」が、昔と比べて確実に変わってきていることに気付いて、そのことに少なくない衝撃を受けていたりする。
昔、「そんなのは若いうちだけだから」と言われて、そんなことないやい!と思っていたことであっても、ふと気が付いてみれば、ああ、そういやそんなのもあったねー、的に振り返っている自分に気が付いたりすることがある。具体例は、ぱっと思いつかないから挙げないけれど、多かれ少なかれ、そういうものって皆が持っているんじゃないかなと思う。
さて、ここで、冒頭に挙げた、「老い」の実像と、嗜好の変化を並べて置いてみる。
いま、「これは歳を取ってから読みたいな」と思っている本は、果たして、老後に読める本なのか?
体力的に、ちゃんと読み切れる本なのか?楽しく読むことが出来る本なのか?
もちろん、年齢とかそういう要素に左右されない、普遍的な面白さを持った作品、というのもあるだろう。
けれど、それを「読む前から」分かる事なんてできるのだろうか?
たぶん、そんなことは不可能だと思う。
世間の評判は、必ずしも、いや、多くの場合、自分の嗜好とは一致しない。
やっぱり、作品というのは、一期一会、なのだなあと思った。
「いま、ここ」で読むことが、きっと、その作品を最も楽しむ方法なのだと思う。
仮に、知識不足で充分に楽しめない、そんな作品と出会ったとしよう。
それでも、「知識不足で充分に楽しめなかった」という経験は、「いま、ここ」でしか得られなかったものだ。
その不満足だったという経験が、「次の展開」へと自分を導いてくれる。
それは、その作品と、そのタイミングで出会ったからこそ得られた経験なのだ、ということ。
もったいぶって、「自分にはまだ早い」なんて思って、敬遠するのはやめよう、と。
なんでも、経験するのに「早すぎる」なんてことはないのだろう、と、この特集を読んで思った。
昔から言われていることではあるけれど、やっぱり、我が身できちんと賦に落とさないと、だめなんだな。