漂書

ぼちぼちと、ゆるゆると

政治センスについて

 始めはログピでちょろちょろ書き始めたのだけど、長くなったのでブログで。

 民主党の問題点は、一点に集約されると言っても良いんじゃないかと思う。

 それは何かというと、始めに提示する方向性は、比較的真っ当なものが多いのに、いざ実行というフェイズになると、まったくもって推進力が足りなすぎて、あっという間にぐだぐだになって、当初のヴィジョンが見る影もなく残念なとこに堕ちていってしまう、という傾向。つまり、実行力の絶望的なまでの不足。

 政権を取った当初は、これは経験不足からくるものなんだろうな、と思っていた。

 しかし、その後の展開を見ていると、そもそも学習能力が低いんじゃないかと感じる。

 あと、いろんな経験を蓄積するための余地が圧倒的に足りてない、つまり余裕がない貧弱さも垣間見える。

 まあ、とは言いつつ、当初から民主党にはまったく期待してはいなかったので、投票もしなかった。

 野党時代の活動を見ていれば、民主党に政治センスが絶望的なまでに備わってないことは一目瞭然。

 そして、いまの自民党にも、その他の政党にも、そういうセンスは残念すぎて見当たらない。

 「政治センス」ってなによ、と問われれば、言い方を変えれば「詐欺師のセンス」の一種だと答える。

 ただ、政治家が詐欺師とはもちろん違う。

 詐欺師は自らという「個」の利益のみを追求する。

 対して政治家は「自らの国」という「群」の利益を追求する。

 政治家の行動は「自分を騙す」という行動に近い。

 まあ、「自分を騙す」に比べれば、騙す方と騙される方の分離が容易だけど。

 「騙す」というと、まあ決して印象の良いものではない。

 それは「裏切り」とか「嘘」というものと直結しているから。

 社会は「相互信頼」という基盤の上に成立しているので、裏切りとか嘘は、社会にとって大きな脅威。

 しかし、人の共感力とか理解力というのは、他の能力と同様に、人によって保持しているレベルが違う。

 本来、それを一定のレベルまで引き上げるのが教育の重要な役目なのだけど、横に置いておく。

 その人によって異なるレベルを埋めるのが、政治という「騙し」のテクニックだと思う。

 性善説では社会は成り立たない。

 それは、過去の事例を紐解くまでもなく、現実を見れば一目瞭然。

 様々な利害関係が複雑に絡み、それぞれの視野の広さによって、それぞれの思う最適解は異なっていく。

 そこを、自らの信じる「最適解」へと社会を誘導するのが、政治というものだ。

 誘導する「先」については、政治センスとは無関係の倫理観とか価値観によるもの。

 そこには優劣は存在しなくて、好きか嫌いか、という感情論になる。

 しかし政治センスは、感情論ではなく、もっと単純な機能論で評価できるものだと思う。

 「先」は投票で決められるべき、というのが民主主義の考え方であって、それは正しいと思う。

 しかし、「センス」の有無のジャッジは、投票で決めるようなものでは無いのではないかな、と思う。

 とはいえ、その二つを切り離すのは、まあ無理な話でもあるので、そこが難しいポイントなんだろうな。